9章

イエス ナザレのイエス

Jesus of Nazareth 7〜4年頃30年頃あり) 神殿のユダヤ(ローマ

はもうまっている。めて、をもしてきよ。

めやす 16分

1. 一言

はもうまっている。めて、をもしてきよ。

イエス(7〜4年頃30年頃)は、ローマのユダヤにきた、ユダヤかられた説教です。一冊いていません。

に、むときのえを2つ。ひとつ、このサイトはイエスをとしてではなく、「で、えと、をめぐるがどうわれてきたか」をとしています。立場つことも、めることもしません。ふたつ、「にこうかれている」()と、「にこうだったとえられる」()は、はっきりです。このページでは、どちらのをしているかがにわかるきます。

2. いそがしい

3つだけ、に。

  • 律法しくれる立派こそがい、というをひっくりした。かれるのは、むしろ律法れない、はみだ、といた。
  • なぜ:このえは、2000かけて西になった。くもくも、いまきるに、このがある。
  • よくあるかれていることすべてが、そのまま「」とはらない。物語には言葉なっている。どこまでがでどこからが言葉かは、でもかれる(う)。

3. どんな

イエスのをするには、まずのユダヤがどんなだったかをがあります。

1世紀、ユダヤはローマにされていました。もとはたちのがいたです。それがは、いローマがや、ローマのつヘロデめられている。しかも「ヤハウェがんだ」であるはずのたちが、なぜみにじられているのか——っこをるがす、いでした。

こので、「はもうすぐわり、しててる」とまっていました。これを しゅうまつろん( によるきと刷新かう、という。イエスのられた。 )といいます。をつくり「その」にえたエッセネ、ローマへのすゼーロータイ(熱心)もいた。が、いくつものえをんでいたです。

イエスはこのれます。ガリラヤ(田舎)のち、30で、 くいあらため(メタノイア) してることではなく、もののきそのものをえること。は『』。 いていたヨハネからけます。ここが出発でした。ヨハネがされたあと、イエスはガリラヤにめます。「ちた。づいた。めて、じなさい」(マルコによる1章15)。

はごくい—— きょうかんふくいんしょ 『マタイ』『マルコ』『ルカ』の3福音書ており、べてめる()ことからこうばれる。 (マタイ・マルコ・ルカ)のだと1年ほど、ヨハネによるをもとにすると3年ほど、といういがあります。そのってえ、やし、など」としてまれていたたちと、あえてみました。これがきな反発びます(6)。

30ごろ、過越りのにエルサレムへり、まもなくされ、ローマポンティオ・ピラトのもとでかれ、のローマにおけるである じゅうじかけい のローマなどしたせしめの。ユダヤではない。 されました。には「ユダヤ」というきがげられた、とえます——ローマがを、なるではなくていたことをしています。

4. となる

こので、イエスがした「み」

イエスのえは、つのできます。

このした、のスイッチ

しく律法れるだけが、づける。

イエス

は、めてにこそ、まずかれている。

律法ることに熱心だったのが ファリサイ ふぁりさいは 律法しようとしたのユダヤ一派。イエスとはい。 です。らにとってづくでした。律法しくること。せば、律法れない——しくてえないするで「けがれている」とみなされた——は、からということになります。

イエスは、これをひっくりしました。「は、あなたがたよりる」(マタイによる2131)。は「」としてけられていたたちと、んでにしました。にするのはとしてれるです。だからは「大食いの大酒飲み、だ」(マタイ1119への悪口としてされている言葉)とされます。なことに、この悪口が、実際にそうきていたことのかなりかなになっています——わざわざ悪口えるがないからです。

たとえ たとえばなし(パラボレー) 身近のありる、イエスえをえずえさせる。 もよく使いました。つが、息子のたとえです(ルカによる15)。にもらってが、びつくしてになり、んで実家ってくる。するとまでかないうちからってきしめ、く。まじめにいだおもしろくありません。このたとえのいは、らずきでえるを、身近えることです。えをえるのではなく、に「ちでいていないか」というさぶりをこすでした。

かみのくに イエスのえの。すでにまっているとに、まだしていない、というつ。 という言葉には、のねじれがあります。一方は「づいた」(マルコ1章15)と、これからとしてりました。で「は、あなたがたのただにある」(ルカによる1721)ともっています。たちはこれを「すでに、しかし、まだ」とします。言葉いのはもうまっている。でもたされるのは、まだこれから。このが、いています。

もう。イエスは律法そのものをしてはいません。 さんじょうのすいくん 『マタイによる』5〜7にまとまる、イエスのえの でこうります。「たのは律法するためだとってはならない。するためではなく、するためである」(マタイによる5章17)。そのうえで「はこうった……しかし、はあなたがたにう」というで、律法をよりします。すな、だけでなくりそのものをめる。 律法 りっぽう(トーラー) ユダヤえと。モーセ。イエスはでなく『』をいたとされる。 文字より、そのにあるいを姿です。そのにあるのが「くしてせよ」「のようにせよ」(マルコによる1228〜31。もとは65・レビ1918)というつのめでした。

5. キーワード

4てきた言葉はカードでいつでもけます。あとし、っておくとしがよくなる言葉します。

  • メシア めしあ(キリスト) がれた』の。ユダヤされた。ギリシャが『キリスト』で、ではなく (めしあ):「がれた」ののヘブライ。ユダヤされたします。ギリシャが「キリスト」。「イエス・キリスト」はではなく「メシアであるイエス」というです。のユダヤでは、メシアはダビデからしいてるじられていました。イエスをメシアだとえていたのかは、です(10)。
  • しゅうまつろん( によるきと刷新かう、という。イエスのられた。 (しゅうまつろん):3章た、のユダヤにられたです。イエスがこのっていたのか、いだったのかは、でもかれます(6b)。

(※ め・たとえ律法・ファリサイ・サドカイイエスは、のカードで、いつでもけます。)

6.

、そしてきなの3けてます。

(a) — なぜされたのか

つは、律法をめぐるです。やしたこと、 ファリサイ ふぁりさいは 律法しようとしたのユダヤ一派。イエスとはい。 めのんじたこと。これは律法をどう実践するかという、ユダヤでした。イエスもファリサイも、じユダヤというっていたのです。

もう決定だったのが、エルサレム殿での出来事です。過越りで殿れたイエスは、両替をひっくりし、したとえられています(マルコによる1115〜17)。殿のユダヤのだけでなく経済でもあり、これをする サドカイ さどかいは 殿していた一派。ローマと調し、律法より殿んじた。 には、そのものへのったはずです。

に、はローマポンティオ・ピラトのもとでかれ じゅうじかけい のローマなどしたせしめの。ユダヤではない。 されます。は、のローマなどのしたで、ユダヤではありません。きが「ユダヤ」だったこともわせると、ローマを、かしかねないとしてした、とえるのがです。

(b) からの — 「イエス」は、どの

19世紀 イエス してきイエス としてではなく、などする、としてのイエス れてするみがいてきました。18世紀のライマールスにまるこのは、きくねます。20世紀にはブルトマンらが「からのイエスすのはにほぼだ」というしました。ではなく、える「」だ、という立場です。このは20世紀ばにし、1980年代のユダヤにイエスをになっています(では「」とばれます)。

それでも「のイエス」のつにまとまっていません。きく3つの立場を、べます。

  • わりがっているとげてった、という(シュヴァイツァーが19世紀え、ではバート・アーマンらがぐ)。
  • ユダヤ:ユダヤれず、そのから律法実践のありした、という(E・P・サンダースら)。
  • よりたとえによる(マタイとルカにしマルコにない「Q」のにするたち)。

(c) つのから、

すぐ、っていたたちのに「イエスはからよみがえった」というまれます。によれば、たちは3日つけ、そのきているイエスにった、とえます。としてできるのは、「この——くともから——にしていた」ということまでです。パウロがいた手紙50年頃)には、すでにされたでこのされています。それよりきたかはで、えます。

もとはユダヤだったは、パウロをじてユダヤにもがります。パウロは律法ることをにしない立場り、これがユダヤとキリストかれていくになりました。70、ローマとのでエルサレム殿されると、エルサレムいをい、がったになっていきます。

にもがかかりました。 きょうかんふくいんしょ 『マタイ』『マルコ』『ルカ』の3福音書ており、べてめる()ことからこうばれる。 にも『トマスによる』のようなくの「」がありました。一致する27文書のリストがめてれるのは、367、アレクサンドリアのアタナシオスの手紙です。されたのは397——から350あとのことでした。「るか」が、人間決定だった、ということです。

7. つながりと

イエスは、ぎ、し、をなすのか。

いだのは、ユダヤです。 貧者へのいたたちのなり、めをいたヨハネからけ、そのけました。

したのは、ではなくです。 これはソクラテスくほどちます。どちらもでは文字かず、たちのによる、あるいはプラトンの)をしてしかづけません。「のイエスはか」という イエス してきイエス としてではなく、などする、としてのイエス は、「のソクラテスはか」というソクラテスです。

へのは、はかりしれません。 パウロの、そして4世紀のローマ国教て、西になっていきます。「すべての平等」という発想が、えた、とするもいます(つのであり、ではありません)。

そして、ニーチェ ニーチェは、のキリストを「のルサンチマンがんだ」と、かけてしました。

8. いまのに、どうくか

イエスの「せ」「のようにせ」というえは、2000たったあせていません。——キングは、このえにざしています——など、かしたくが、このえをしてきました。これが

でも、もあります。じて、えをげたが、、そしてユダヤなど、えのとはしてきました。「せよ」といたのもとにるわれてきたさは、めるがあります。

このは、イエスしていたことでもあります。 さんじょうのすいくん 『マタイによる』5〜7にまとまる、イエスのえの はこうっています。「かって『よ、よ』というが、みなるのではない」(マタイによる721)。えをげることと、えのりにきることはだ、というです。しさをするより、実際にどうするかをよ——このは、らずどんなにもてはまります。と、実際いのあいだのズレをわないこと。えからせる、かもしれません。

9. もっと

イエスも、いきなりしいむと迷子になります。です。

  1. まずを。の『マルコによる』(4福音書く、かれたとされる)から。としては、荒井献佐藤研らによるが、らずしくみやすい。
  2. を、やさしく。荒井献『イエスとその』()。
  3. もうむなら、田川『イエスという』()。からいイエスきます。「つの」としてむのがコツ。
  4. すなら、J.H.チャールズワース『これだけはっておきたいイエス』()。
  5. としてまとまっていったは、『「」の誕生』(メチエ)。

コツもつ。むときは「これはえるためにかれただ」としながらと、えたかったのかが、かえってよくえてきます。

10. まだ決着していないこと(ボックス)


このサイトは、したと、れる、そして言葉を、けてしています。立場たず、もせず、出典たれるがけました。イエスについてはに、「がそうえている」と「にそうだったとえられる」を、ぜないようめています。

もっとる — ブックガイド

(まずここから)

  • 荒井献『イエスとその』(, 1974) イエス一般けにまとめた
  • 田川『イエスという 』(, 2004) から『』としてのイエスく。く、つのとして。
  • J.H.チャールズワース『これだけはっておきたいイエス』(中野実, , 2012) イエスせる
  • 『「」の誕生』(メチエ, 1999) がどうかれ、としてまとまっていったかの

むなら)

  • 荒井献佐藤研らによるらず、しい。まず『マルコによる』から。
  • 塚本虎二 りやすい