むずかしい話()を、いちばんやさしく

枝()葉()ではなく、根()を変()える。

自()己()啓()発()を何()冊()読()んでも変()わらなかったのは、いじる場()所()が違()ったから。 ここは、世()界()の“見()方()”そのものを書()き換()えてしまった人()たちの話()です。

まずは、ここから

いまの気()持()ちは、どれに近()い?

知()識()はいりません。近()いものを選()べば、その問()いに向()き合()った人()へ、まっすぐ行()けます。

背骨()

なぜ、哲()学()が効()くのか

小()ワザをいくら磨()いても、人()生()は変()わりません。変()わるのは、世()界()の「見()方()」そのものを入()れ替()えたときだけ。

なぜ、根()を変()えるのか

順()番()に読()みたい人()へ

易()しい問()いから、深()い問()いへ

どの章()も単()独()で読()めます。迷()うなら上()から。問()いがだんだん深()くなる、14人()の一本()道()です。

  1. 1 スマイルズ
  2. 2 ドゥエック
  3. 3 アドラー
  4. 4 孔()子()
  5. 5 ブッダ
  6. 6 ソクラテス
  7. 7 マルクス・アウレリウス
  8. 8 エピクロス
  9. 9 イエス
  10. 10 ニーチェ
  11. 11 カミュ
  12. 12 サルトル
  13. 13 フランクル
  14. 14 道()元()

思()想()家()の地()図()

どの源()流()から来()た人()か

大()きく分()けて、いくつかの源()流()があります。近()いところから読()むと、流()れが見()えてきます。

自()己()啓()発()の源()流()

「努()力()すれば変()われる」を広()めた人()たち。看()板()の一言()と、本()人()の真()意()のあいだを読()む。

東()洋()の根()

同()じ問()い〈苦()しみ・自()己()〉に、別()の角()度()から答()えた東()洋()の源()流()。手放()すブッダ/関()係()を全()うする孔()子()/今()に成()りきる道()元()。

古()代()の根()

生()き方()の“型()”をつくった人()たち。どう生()き、どう穏()やかでいるか。

近()代()の断()層()

「神()は死()んだ」以()後()。意()味()が無()いと知()った世()界()で、どう立()つか。

思()想()の系()譜()

思()想()は、一人()では生()まれない

受()け取()り、反発()し、作()り替()える。そのリレーを、選()び抜()いた10本()の線()で。上()が古()代()、下()が現()代()です。

影()響() 対()立()・対()比()

孔子 ソクラテス ブッダ エピクロス イエス アウレリウス 道元 スマイルズ ニーチェ アドラー フランクル サルトル カミュ ドゥエック
ソクラテスからアウレリウスへ、影()響()(源()流())。ブッダから道()元()へ、影()響()(源()流())。ニーチェからアドラーへ、影()響()(影()響())。ニーチェからサルトルへ、影()響()(影()響())。アドラーからフランクルへ、影()響()(影()響())。エピクロスとアウレリウス、対()立()・対()比()(対()決())。ニーチェとブッダ、対()立()・対()比()(対()決())。カミュとサルトル、対()立()・対()比()(決()裂())。孔()子()とソクラテス、対()立()・対()比()(東西())。道()元()とスマイルズ、対()立()・対()比()(真()逆())。イエスとソクラテス、対()立()・対()比()(同()型())。イエスとニーチェ、対()立()・対()比()(反()キリスト者())。

横()断()テーマ表()

同()じ問()いに、14人()はどう答()えたか

観()点()を選()ぶと、その問()いへの14人()の答()えが横()並()びになります。気()になる答()えをひらけば、その人()の章()へ。

観()点()(行())× 思()想()家()(列())の横()断()比()較()。各()セルはその人()のその観()点()への一()文()。
スマイルズ 自()己()啓()発()の源()流() ドゥエック 自()己()啓()発()の源()流() アドラー 自()己()啓()発()の源()流() 孔()子() 東()洋()の根() ブッダ 東()洋()の根() ソクラテス 古()代()の根() マルクス・アウレリウス 古()代()の根() エピクロス 古()代()の根() イエス 古()代()の根() ニーチェ 近()代()の断()層() カミュ 近()代()の断()層() サルトル 近()代()の断()層() フランクル 近()代()の断()層() 道()元() 東()洋()の根()
スマイルズ 逆境()は、人()格()を鍛()える「最()良()の砥()石()」。乗()り越()えるべき成()長()の機()会()。 ドゥエック 苦()しみ(困()難())は、脳()が新()しい回()路()を作()っている最()中()のサイン。成()長()の途()中()。 アドラー 苦()しみは過()去()の出来事()そのものでなく、それに与()える意()味()と『今()の目()的()』から生()じる。 孔()子() 苦()境()でも自()暴()自()棄()にならず倫()理()を保()つ。学()びと徳()に楽()しみを見()いだす(安貧楽道())。 ブッダ 苦()は執()着()(渇()愛())から生()まれる。執()着()を手放()せば、苦()は消()せる。 ソクラテス 苦()しみへの処()方()より、魂()をより善()くする吟()味()を優()先()する。 マルクス・アウレリウス 苦()しめるのは出来事()でなく、それへの「自()分()の判()断()」。判()断()を正()せば、苦()は鎮()まる。 エピクロス 苦()は、空()虚()な欲()望()と恐()れ(死()・神())から来()る。正()しく知()れば、消()せる。 イエス 貧()しい者()・泣()く者()にこそ『幸()いだ』と告()げた。苦()しみを避()けよではなく、苦()しむ者()に神()は近()いと説()いた。 ニーチェ 避()けるべき敵()ではなく、自()分()を強()くする栄()養()。『運()命()愛()』で苦()しみごと肯()定()せよ。 カミュ 消()せない。ごまかさず明()晰()に見()据()えて、それでも反()抗()せよ。 サルトル 自()由()(選()ばざるを得()ないこと)と全()責()任()が生()む『不()安()』は、逃()れられない人間()の条()件()。 フランクル 避()けられない苦()しみには、どう向()き合()うか(態()度()価()値())で意()味()を見出()せる。 道()元() 苦()を未()来()に消()すのでなく、今()この事()実()に全()身()で成()りきる。寒()い時()は寒()さになりきる。
スマイルズ 日々()の労()働()と自()己()修()養()を通()じて、誠()実()で自()立()した人()格()を完()成()させること。 ドゥエック 意()味()は、才()能()で勝()つ結果()でなく、学()び改()善()し続()けるプロセスそのものにある。 アドラー 人()生()の意()味()は、他()者()への関()心()・貢()献()(共()同()体()感()覚())の中()にある。 孔()子() 人()生()の意()味()は、天()命()の自()覚()と、仁()の実践()にある。他()者()の承()認()には求()めない。 ブッダ 答()えの出()ない問()い(無()記())に意()味()を求()めず、今()ここの苦()の解()決()に意()味()を置()く。 ソクラテス 意()味()は与()えるものではなく、前()提()を吟()味()した先()に見()えてくる。 マルクス・アウレリウス 宇()宙()の理()性()(ロゴス)と調()和()し、公()共()のために役()割()を果()たすことに意()味()がある。 エピクロス 宇()宙()に目()的()はない。心()の平()静()と、友()との小()さな暮()らしそのものが目()的()。 イエス 意()味()は自()分()で創()るのではなく、神()の国()という物語()の中()で、隣()人()を愛()して生()きることに見出()す。 ニーチェ 与()えられた意()味()は無()い。自()分()で創()れる——それは圧倒的()な自()由()の証()。 カミュ 意()味()は無()い。創()ることも見出()すこともできない。無()いまま反()抗()して生()きる。 サルトル 世()界()にあらかじめ意()味()はない。意()味()は、発見()するものでなく、選()択()と行()動()で自()ら創()るもの。 フランクル 意()味()は発()明()するものではない。状()況()の中()に既()にあり、見()つけて応()える。 道()元() 意()味()は将()来()の達成()にあるのでなく、今()この行()為()そのものに、すでに現()れている(現()成()公()案())。
スマイルズ 自()己()は環()境()の奴()隷()ではない。意()志()と習()慣()で、後()天()的()に育()てられる未()完()成()の彫()刻()。 ドゥエック 自()己()は固()定()の器()でなく、経()験()と戦()略()で生()涯()変()わり続()ける可()塑()的()な存()在()。 アドラー 自()分()の生()き方()(ライフスタイル)は自()分()で選()んだもの。いつでも選()び直()せる。 孔()子() 自()己()修()養()(修()己())が出発()点()。評()価()は外()でなく、自()分()の良()心()に照()らして曇()りがないか。 ブッダ 確()かな自()己()(アートマン)は無()い。「私()」は変()わり続()ける要()素()の集()まり(無()我()・五蘊())。 ソクラテス 自()己()は創()るものでも手放()すものでもなく、吟()味()し世()話()する「魂()」。 マルクス・アウレリウス 外()の環()境()から独()立()した、内()なる「理()性()の砦()」。そこだけは誰()にも奪()えない。 エピクロス 自()己()は一時()的()な原()子()の集()まり。欲()の限()度()を知()れば、もう自()足()できている。 イエス 自()分()を捨()てて隣()人()のために生()きることの中()に、本()当()のいのちが見()つかるという逆()説()。 ニーチェ 『本()当()の自()分()』を探()すな。今()の自()分()を壊()し、なり続()けろ(自()己()超()克()・超()人())。 カミュ 信()仰()や理()想()に逃()げ込()まず、明()晰()な意()識()を保()ち続()ける自()己()。 サルトル 自()己()は固()定()した実体()でなく、常()に今()の自()分()を超()えて、新()しい自()分()になっていく途()中()のプロセス。 フランクル 自()己()実()現()は直()接()狙()うと逃()げる。意()味()へ献()身()した結果()として得()られる副()産()物()。 道()元() 自()己()を学()ぶとは、自()己()を忘()れること。固()定()した『自()分()』を手放()す(自()己()をわするる)。
スマイルズ 死()後()に残()るのは、築()き上()げた品()性()と、後()世()の模()範()となる労()働()の足()跡()。 ドゥエック (中()心()主()題()でないため、代()わりに「失敗()」)失敗()は無()能()の証()明()でなく、『まだ』有()効()な手()を見()つけていないという情()報()。 アドラー (中()心()主()題()でないため、代()わりに「変()化()」)人()はいつでも、今()の目()的()を切()り替()えれば、生()き方()を変()えられる。 孔()子() 「未()だ生()を知()らず、いづくんぞ死()を知()らん」。死()後()より、今()ここの生()をどう生()きるか。 ブッダ 死()は無()常()の一相()。輪廻()から「降()りる」こと(涅槃())を究()極()の安()らぎとする。 ソクラテス 死()が善()いか悪()いか誰()も知()らない。恐()れるのは「知()らないのに知()ったつもり」の最()たるもの。 マルクス・アウレリウス 死()は宇()宙()の自()然()な変()化()の一()部()。恐()れず、有()限()だからこそ今()を善()く生()きる。 エピクロス 死()は我々()にとって無()。死()ねば感()じる主()体()が消()えるので、恐()れる理()由()がない。 イエス 死()は終()わりではないと説()いた。復活()信()仰()を土()台()に、今()を『神()の国()』の始()まりとして生()きよという教()え。 ニーチェ 来()世()を当()てにせず大()地()に忠()実()に。この一回()(永()劫()回()帰()では無()限()回())の生()を引()き受()けよ。 カミュ 死()は最()も明()白()な不()条()理()。和()解()せず、抵()抗()したまま受()け止()める。 サルトル (中()心()主()題()でないため、代()わりに「自()由()」)人間()は自()由()の刑()に処()せられている。選()ばない、という自()由()はない。 フランクル 死()(有()限()性())があるからこそ、今()この一回()の行()為()がかけがえのない意()味()を持()つ。 道()元() 生()から死()へ移()るのではない。生()は生()に、死()は死()に成()りきった、それぞれ絶対()の『時()』。
スマイルズ 過()剰()な援()助()は人()を弱()くする。自()立()した個()人()どうしの間()に真()の尊()敬()がある。 ドゥエック 他()者()は競()争()相()手()でなく、フィードバックと助()けをくれる協()働()者()。 アドラー 人()生()の課()題()はすべて、対()人()関()係()の課()題()。他()者()は競()争()相()手()でなく、貢()献()すべき『仲()間()』。 孔()子() すべての中()心()は他()者()との関()係()性()。他()者()は競()争()相()手()でなく、共()に立()つべき相()手()。仁()=関()係()の倫()理()。 ブッダ 自()他()の境()を超()え、生()きとし生()けるものの幸()福()を願()う慈()悲()を育()てる。 ソクラテス 他()者()は論破()する敵()ではなく、ともに無()知()を自()覚()し探()究()する相()手()。 マルクス・アウレリウス すべての人()は理()性()を分()かち合()う同()胞()。妨()げ合()うのは自()然()に反()する。 エピクロス 競()争()や名()声()から降()り、心()を許()せる友()との「友()情()」を人()生()最()高()の宝()とする。 イエス 敵()をも愛()し、赦()せ。取()税()人()や罪()人()など、律法()の外()に置()かれた者()ほど、先()に招()かれる。 ニーチェ 群()れ(畜()群())に流()されず、自()分()の価()値()で立()つ。同()情()に溺()れず、相()手()を一人()前()の強()者()として尊()重()せよ。 カミュ 反()抗()は連()帯()を生()む——「われ反()抗()す、ゆえにわれら在()り」。 サルトル 他()者()のまなざしは、私()をモノに固()定()し自()由()を脅()かす(地()獄()とは他()人())。だが自()己()規()定()に他()者()は不()可()欠()。 フランクル 人()は自()分()を超()えて誰()か・何()かへ向()かう(自()己()超()越())。愛()は他()者()のかけがえのなさを見()抜()く。 道()元() 自()己()と他()者()を隔()てる枠()が、ともに脱()落()する。自()他()の境()界()そのものが外()れる。
スマイルズ 才()能()の欠()如()は、勤()勉()と忍()耐()で補()える。努()力()は最()後()に成()果()として報()われる。 ドゥエック 努()力()は道()徳()的()な善()そのものでなく、正()しい戦()略()・助()けと組()んで初()めて働()く成()長()の手()段()。 アドラー 劣等()感()は、努()力()と成()長()を生()む健()全()なバネ。他()人()に勝()つためでなく、理()想()の自()分()へ。 孔()子() たゆまぬ学()びと自()己()鍛()錬()。「我()は生()まれながらにして之()を知()る者()に非()ず」=天()才()でなく努()力()の人()。 ブッダ 快()楽()にも苦()行()にも偏()らず、八正道()を地()道()に実践()する(中()道()・不()放()逸())。 ソクラテス 「自()分()は知()らない」に何()度()も立()ち返()り、問()いを立()て続()けること。 マルクス・アウレリウス 結果()(コントロール外())でなく、徳()ある行()い(コントロール内())に力()を注()ぐ。 エピクロス 外()の世()界()を変()えるより、自()分()の欲()望()を「減()らす」方()向()に努()力()を向()ける。 イエス 自()分()の努()力()で神()に近()づくのではなく、まず神()の愛()を受()け取()り、そこから隣()人()愛()を実践()せよ。 ニーチェ 耐()え忍()ぶ犠()牲()ではなく、永()遠()に繰()り返()してもいいと思()えることに全()力()を注()げ。 カミュ シーシュポスのように、報()われなくても続()ける行()為()そのものに価()値()がある。 サルトル 未()来()へ自()分()を投()げかけること(投()企())。傍()観()者()にならず、自()ら状()況()に身()を投()じる(アンガジュマン)。 フランクル 緊()張()ゼロの安()楽()ではなく、果()たすべき意()味()との健()全()な緊()張()を生()きよ。 道()元() 結果()のための努()力()ではない。行()為()そのものが目()的()。=自()己()啓()発()の努()力()主()義()の、真()逆()。

対()決()で見()る

正()反()対()の答()えを、並()べて見()る

同()じ問()いから出発()して、逆()の結()論()にたどり着()いた二人()。違()いを並()べると、それぞれの「核()」がいちばんよく見()えます。

対()決()ペア

ニーチェ ブッダ 「苦()しみ」をめぐって

二人()は、まったく同()じ場()所()から出発()します。「人()生()は、放()っておけば苦()しみだ」。なのに、出()した答()えは正()反()対()でした。

ニーチェ

手放()さず、苦()しみごと肯()定()して超()える(運()命()愛()・永()劫()回()帰())。

避()けるべき敵()ではなく、自()分()を強()くする栄()養()。『運()命()愛()』で苦()しみごと肯()定()せよ。

対()立()の核()

手放()して消()すブッダ / 肯()定()して超()えるニーチェ

ブッダ

渇()愛()(しがみつく心())を手放()し、苦()の火()を消()す(中()道()・涅槃())。

苦()は執()着()(渇()愛())から生()まれる。執()着()を手放()せば、苦()は消()せる。

対()決()ペア

マルクス・アウレリウス エピクロス 「心()の平()静()」をめぐって

二人()は、同()じ問()いの前()に立()っていました。「どう生()きれば、心()は穏()やかになれるか」。この問()いに、ヘレニズム期()に生()まれた二()つの学()派()(ストア派()と、エピクロスの園())は、正()反()対()の答()えを出()しました。マルクスは、その約()400年()後()を生()きたストア派()の実践()者()。世()の中()に踏()みとどまるか、降()りるか、です。

マルクス・アウレリウス

社()会()の只()中()で義()務()を果()たし、変()えられないものを受()け入()れ、徳()に生()きる。

苦()しめるのは出来事()でなく、それへの「自()分()の判()断()」。判()断()を正()せば、苦()は鎮()まる。

対()立()の核()

社()会()の只()中()で義()務()を果()たすストア / わずらわしい世()間()から退()くエピクロス

エピクロス

わずらわしい世()間()から退()き、欲()を引()き算()して、友()と穏()やかに暮()らす。

苦()は、空()虚()な欲()望()と恐()れ(死()・神())から来()る。正()しく知()れば、消()せる。

対()比()軸()でみる

マルクス・アウレリウス 論()点() エピクロス
社()会()の只()中()で義()務()を果()たす 社()会()との関()わり 隠()れて生()きよ(公()共()から退()く)
アパテイア(不()健()全()な情()念()からの自()由()) 目()標() アタラクシア(心()の平()静()・無()動()揺())
宇()宙()を貫()く理()性()ロゴスと摂()理() 宇()宙()観() 目()的()のない、原()子()と空()虚()
決定()論()(自()然()に従()う) 運()命() 原()子()の「逸()れ」が開()く自()由()の余()地()

ぜんぶ見()る

いま読()める14人()

別室()

別室()の展()示()

メインの一本()道()とは別()枠()の3部屋()。哲()学()者()ではない実践()者()や、本編()を脇()から照()らす思()想()家()たち。主()役()ではないけれど、読()むと本編()の見()え方()が変()わります。