古()代()の根() 第()8章()

エピクロス エピクロス

Epicurus 前()341–前()270 古()代()ギリシア(ヘレニズム期())

足()りないんじゃない。欲()しがりすぎているだけだ。

読()了()めやす 約()13分()

1. 一言()で

足()りないんじゃない。欲()しがりすぎているだけだ。

エピクロス(前()341–前()270)は、こう考()えた古()代()ギリシアの哲()学()者()です。「幸()せとは何()か」を、まるごと引()っくり返()した人()です。

先()に、読()むときの構()えを2つ。ひとつ、いちばん大()事()な注()意()です。「エピキュリアン」という言葉()、いまでは「美()食()家()」「グルメ」を意()味()しますよね。高()級()レストランの代()名()詞()です。ところが、本()物()のエピクロスは、その正()反()対()でした。パンと水()で満足()する、とても質素()な人()だったのです。名()前()のイメージは、いったん全()部()忘()れてください。ふたつ、彼()の著()作()はほとんど残()っておらず、わずかな手紙()と、後()の人々()が伝()えた記()録()から、その姿()を再()構()成()します。崇()めも、こき下()ろしもしません。

2. いそがしい人()へ

3つだけ、先()に。

  • 核()心():幸()せは「足()し算()」ではなく「引()き算()」。もっと手()に入()れるのではなく、余()計()な欲()を減()らせば、今()のままでもう足()りている。
  • なぜ重()要():「たくさん持()つほど幸()せ」という、私()たちが当()たり前()に信()じている前()提()そのものを、逆()向()きに引()っくり返()した。
  • よくある誤()解():「エピキュリアン=美()食()・贅()沢()」は、正()反()対()の誤()解()です。彼()の言()う「快()楽()」とは、過()剰()な快()ではなく「苦()痛()が無()い」こと。そして有()名()な「隠()れて生()きよ」も、実()は本()人()の言葉()として残()ってはいません。

3. どんな人()?

エピクロスは、前()341年()に生()まれ、アテナイの郊()外()に、ちょっと変()わった場()所()をつくりました。「庭()園()(ケーポス)」と呼()ばれる、学()園()のような共()同()体()です。

ここが面()白()い。当()時()のアテナイは、身()分()や性()別()にうるさい社()会()でした。なのにこの庭()園()は、女()性()も、奴()隷()も受()け入()れた。世()間()の出世()争()いや名()声()から距()離()を置()いて、気()の合()う仲()間()と、質素()に、穏()やかに、哲()学()をしながら暮()らす。そういう小()さな共()同()体()だったのです。

彼()が生()きたのは、ヘレニズム期()という、不()安()の時()代()でした。アレクサンドロス大()王()の死()後()、それまで人々()の拠()り所()だった都()市()国家()(ポリス)が力()を失()い、「自()分()はどう生()きればいいのか」という個()人()の不()安()が、社()会()に広()がっていた。同()じ時()代()に、ストア派()や懐()疑()派()も生()まれます。「どうすれば心()穏()やかに生()きられるか」を、みんなが競()い合()って探()していた時()代()だったのです。

そして、彼()の最()期()が、その思()想()を証()明()しています。エピクロスは、結石()の激()痛()に14日間()苦()しみながら、亡()くなりました。でも、死()の床()で友()に書()いた手紙()には、こうあります。「わが生()涯()の、最()後()にして幸()いなる日()に」。体()は痛()みに苛()まれているのに、友()と語()り合()った日々()の思()い出()が、その痛()みを相()殺()している、と。最()後()まで、彼()は自()分()の哲()学()を生()きました。遺()言()では、仕()えてくれた奴()隷()たちを、自()由()にしてやっています。

4. 中()心()となる考()え

この章()で、エピクロスがやった「引()き算()」

エピクロスの考()えは、たった一()つの計()算()の向()きを変()えることです。幸()せは、足()し算()じゃない。引()き算()だ。

この人()が押()した、前()提()のスイッチ

登()場()前()の常()識()

もっと多()く得()れば、幸()せになれる。

エピクロス以()後()

余()計()な欲()を引()き算()すれば、もう足()りている。

まず、名()前()のことで誤()解()を解()かせてください。「エピキュリアン」と聞()くと、高()級()レストランやワイン通()、美()食()家()を思()い浮()かべますよね。ところが、本()物()のエピクロスは、その正()反()対()でした。普()段()はパンと水()で満足()し、「贅()沢()なんていらない」と説()いた、とても質素()な人()だったんです。なぜ正()反()対()の意()味()になったのかは、後()で(6章()で)。

「快()楽()」の、ほんとうの意()味()

エピクロスは確()かに「 快()楽() かいらく(ヘドネー) エピクロスの最()高()善()。ただし中()身()は「苦()痛()の欠()如()」。過()剰()な快()ではなく、痛()みや渇()きが無()い静()かな状()態()を指()す。 こそ人()生()の目()的()だ」と言()いました。でも、ここが肝心()。彼()の言()う快()楽()は、「もっと気()持()ちよく、もっと興()奮()を」ではありません。

彼()の言()う快()楽()とは、痛()みや、渇()きや、不()安()が「無()い」状()態()のこと。お腹()がペコペコのとき、ごちそうでなくても、パンひと切()れが最()高()においしい。喉()がカラカラのとき、水()が何()よりうまい。あの感()じです。マイナス(苦()痛())がゼロに戻()った、その静()かな満足()。これを アタラクシア あたらくしあ(ἀταραξία) 心()が乱()されない平()静()。これが本()当()の目()標()。 (心()の平()静())といいます。ゼロが、最()高()なんです。 ここを超()えて「もっと、もっと」と足()していくのは、彼()に言()わせれば、もう快()楽()ではなく、新()しい苦()しみの始()まりです。

欲()を、3つに仕()分()ける

では、何()を減()らせばいいのか。エピクロスは、欲()望()をきれいに3つに分()けました。 欲()望()の三()分類() よくぼうのさんぶんるい 欲()を「自()然()で必()要()(食()・友()・健()康())/自()然()だが不()要()(贅()沢())/空()虚()(名()声()・富())」に分()け、必()要()なものだけ満()たす。 です。

  • 自()然()で、必()要()なもの:食()べる、飲()む、雨()露()をしのぐ、友()がいる。これは満()たしていい。
  • 自()然()だけど、不()要()なもの:豪()華()な食()事()、贅()沢()な家()。あれば嬉()しいが、無()くてもいい。
  • 空()っぽな、思()い込()みの欲():富()、名()声()、権()力()。これが曲者()。いくら手()に入()れても、際()限()がない。

幸()福()を、こんな式()で考()えてみてください。幸()福() = 手()に入()れたもの ÷ 欲()しいものの量()。世()間()は、上()(手()に入()れるもの)を増()やそうと、終()わらない競()争()をします。でもエピクロスは逆()を行()く。下()(欲()しいものの量())を小()さくすれば、同()じ比()率()の幸()福()が、今()すぐ手()に入()る。 これが「引()き算()の幸()福()」です。

いちばん有()名()な仕事()——「死()は、怖()くない」

エピクロスが人々()から取()り除()こうとした、最()大()の恐()れ。それは死()でした。彼()の論法()は、ぞくっとするほどシンプルです。

「死()は、私()たちにとって、何()でもない」。 なぜか。 原()子()論() げんしろん 世()界()は「原()子()」と「空()虚()」だけでできているという唯()物()論()。魂()も原()子()で、死()ねば散()る。 。世()界()は原()子()でできていて、心()も原()子()の集()まりだから、死()ねばバラバラに散()る。つまり、死()んだら、それを感()じる”私()”がいない。痛()いも、怖()いも、感()じる主()体()がいなければ存()在()しない。だから彼()は言()います。「私()がいるとき、死()はいない。死()が来()たとき、私()はいない」。出()会()うことすらない相()手()を、なぜ怖()がるのか、と。

同()じように、神々()の罰()も恐()れなくていい、と説()きました。神()はいるけれど、人間()の世()界()にいちいち介()入()してこない。だから天()罰()におびえる必()要()はない。死()の恐()怖()と、神()の恐()怖()。この2つを論()理()で解()体()することが、彼()の哲()学()のいちばんの目()的()でした。

そして、友()だち

では、引()き算()した先()に、何()を残()すのか。エピクロスの答()えが、いいんです。 友()情() ゆうじょう(フィリア) エピクロスが「人()生()最()大()の宝()」とした、心()を許()せる友()との結()びつき。庭()園()共()同()体()の核()。 。

彼()は、心()を許()せる友()との結()びつきを、「人()生()で最()高()の宝()」と呼()びました。だから「庭()園()」という小()さな共()同()体()で、気()の合()う仲()間()と、質素()に、穏()やかに暮()らした。富()も名()声()もいらない。おいしいパンと、安()心()して話()せる友()がいれば、人()はもう、神々()の王()とだって幸()福()を競()える。そう本()気()で考()えた人()でした。

5. キーワード

4章()の言葉()は、カードでいつでも引()けます。あと2つだけ、足()しておきます。

  • アポニア あぽにあ(ἀπονία) 身()体()に苦()痛()がない状()態()。アタラクシアと並()ぶ目()標()。 (あぽにあ):体()に苦()痛()がない状()態()のこと。心()の平()静()(アタラクシア)と並()ぶ、エピクロスの目()標()です。心()と体()、両()方()が「痛()くない」こと。それだけで、もう十分()に満()ち足()りている、という考()え方()です。
  • 庭()園() ていえん(ケーポス) エピクロスがアテナイ郊()外()に開()いた学()園()兼()共()同()体()。女()性()も奴()隷()も受()け入()れた。 (ケーポス):エピクロスがアテナイ郊()外()に開()いた、学()園()であり共()同()体()。女()性()も奴()隷()も受()け入()れた、当()時()としては破()格()に開()かれた場()所()でした。彼()の哲()学()は、本()に書()かれただけでなく、この「みんなで質素()に穏()やかに暮()らす」実践()そのものとして生()きられたのです。

(※ 快()楽()・アタラクシア・欲()望()の三()分類()・原()子()論()・隠()れて生()きよ・友()情()は、本()文()中()のカードで、いつでも引()けます。)

6. 批()判()・限()界()

質素()なエピクロスが、なぜ「放()蕩()の美()食()家()」と呼()ばれるようになったのか。その誤()解()の歴()史()こそ、批()判()の中()心()です。3層()で見()ます。

(a) 同()時()代()の批()判() — 「社()会()から逃()げている」

生()きている間()も、批()判()はありました。生()前()は離()反()者()や他()学()派()から中()傷()され、のちにはストア派()からも、「快()楽()を最()高()の善()とするなんて、利()己()的()で堕()落()している」と激()しく攻()撃()された。そして「隠()れて生()きよ(社()会()から退()いて静()かに暮()らせ)」という教()えは、市()民()としての義()務()(政()治()や軍()役())を放()り出()す、無()責()任()な態()度()だと非()難()されました。みんなが社()会()を支()える負()担()を負()っているのに、お前()たちだけ庭()園()に引()きこもるのか、と。

(b) 後()世()の歪()曲() — なぜ「美()食()家()」になったのか

ここが、この人()を語()るうえでの核()心()です。質素()を説()いた人()が、なぜ「贅()沢()の代()名()詞()」になってしまったのか。

経()緯()を追()うと、こうです。まず、古()代()の論()敵()たちが「エピクロス=快()楽()に溺()れる豚()」という中()傷()を広()めた。次()に、キリスト教()の時()代()になると、致()命()的()になります。エピクロスは「神()は人間()界()に介()入()しない」「魂()は死()とともに消()える」と説()いた。これがキリスト教()にとって最()も危()険()な異()端()に見()えた。だから教()会()は、彼()を徹底()的()に貶()めた(詩()人()ダンテは『神()曲()』で、エピクロスを地()獄()に置()いています)。こうして「エピキュリアン=神()を恐()れぬ放()蕩()者()」というレッテルが定()着()し、やがて英()語()で「美()食()家()」を意()味()する言葉()へと、本()来()と正()反()対()の意()味()に書()き換()えられていったのです。

つまり、いま私()たちが持()っている「エピキュリアン」のイメージは、彼()の敵()がつくったものなんです。

(c) 哲()学()としての批()判()

哲()学()そのものへの批()判()もあります。「苦()痛()が無()い状()態()(ゼロ)」を最()高()の幸()福()とするのは、消()極()的()すぎないか。困()難()に挑()んで何()かを成()し遂()げる喜()びや、創()造()の高()揚()を、はじめから捨()てているのではないか。

7. つながりと対()比()

エピクロスは、誰()と対()をなし、誰()に似()て、どこへ流()れたのか。

最()大()の対()決()相()手()が、マルクス・アウレリウス(ストア派())。 これは、このサイトの目()玉()の一()つです。二人()は約()450年()、時()代()を隔()てています。それでも並()べるのは、同()じ問()い「どう生()きれば、心()は穏()やかになれるか」に、正()反()対()の答()えを出()したからです。エピクロスの園()とストア派()は、同()じヘレニズム期()に生()まれたライバル学()派()で、マルクスは後()のストア派()の実践()者()です。

  • 社()会()との関()わり:マルクス(ストア)は「社()会()の只()中()で、義()務()を果()たせ」。エピクロスは「社()会()から退()いて、隠()れて生()きよ」。
  • 宇()宙()の見()方():ストアは「宇()宙()は理()性()(ロゴス)に貫()かれている」。エピクロスは「宇()宙()はただの原()子()の偶()然()で、目()的()なんてない」。

世()の中()に踏()みとどまるか、降()りるか。正()反()対()です。

ただし、誤()解()しないでください。二人()は、憎()み合()っていたわけではありません。実()は、マルクスは『自()省()録()』の中()で、病()に苦()しみながらも哲()学()を語()り続()けたエピクロスの姿()を、敬()意()をこめて引()用()しています。痛()みに耐()えるとき、エピクロスの言葉()に慰()めを求()めてさえいる。これは「どちらが正()しいか」の罵()り合()いではなく、「どう生()きるか」の、二()つの誠()実()な道()なのです。

意()外()に似()ているのが、ブッダ。 「欲()を減()らせば、苦()は消()える」という診()断()は、驚()くほどそっくりです。でも、行()き先()が違()う。ブッダは「自()己()」そのものを手放()して解()脱()へ向()かう。エピクロスは、現()世()を生()きる一人()の人間()のまま、「痛()みのない平()静()」を味()わうことを善()とした。似()ているけれど、根()っこが違()う。お決()まりの、面()白()いところです。

そして彼()の思()想()は、ずっと後()の世()界()にも流()れ込()みます。ローマの詩()人()ルクレティウスが受()け継()ぎ、ルネサンスで再()発見()され、近()代()の科()学()(原()子()論())や、「最()大()多()数()の最()大()幸()福()」を説()く功()利()主()義()の源()流()になった。アメリカ独()立()宣()言()の「幸()福()の追()求()」という言葉()の裏()にも、エピクロスの影()がある。後()年()、起()草()者()ジェファソンは、自()ら「私()はエピキュリアンだ」と名()乗()っていました。 → このサイトでは、マルクス・アウレリウス・ブッダ・ソクラテス につながります。

8. いまの自()分()に、どう効()くか

ミニマリズム、断()捨()離()、「足()るを知()る」。書()店()の棚()にあふれるこの流()行()の、はるか上()流()にいるのがエピクロスです。これが薬()の面()。

無()限()の経済()成()長()、終()わらない消()費()、SNSで他()人()と比()べ続()ける承()認()欲求()のゲーム。それに疲()れた現()代()人()にとって、「余()計()な欲()を減()らせば、今()のままで足()りている」という教()えは、ミニマリズムや”足()るを知()る”スローライフの、はるかな先()駆()です。死()の恐()怖()や将()来()の不()安()に対()する、実践()的()な処()方()箋()にもなる。

でも、すり替()えの面()は、これがすごい皮()肉()なんです。彼()の名()前()そのものが、乗()っ取()られている。

「エピキュリアン」は、いまも高()級()レストランやワインの代()名()詞()として使()われ続()けています。エピクロスが最()も忌()み嫌()った「際()限()のない贅()沢()な消()費()」を正()当()化()するための、おしゃれなキャッチコピーとして。質素()を説()いた人()の名()が、浪()費()の宣()伝()に使()われている。これ以()上()の皮()肉()は、なかなかありません。

ここで、これまでの思()想()家()たちと同()じ問()いが、また顔()を出()します。エピクロスが本()当()に問()うたのは、「どうすれば、もっと贅()沢()に楽()しめるか」ではありませんでした。「どれだけ少()なくても、人()は満()ち足()りられるか」です。「足()るを知()る」という生()き方()の根()っこが、「もっと消()費()せよ」という正()反()対()の宣()伝()文()句()に書()き換()えられる。彼()の名()前()を消()費()するまえに、彼()が本()当()に言()ったことを、一()度()は聞()いておきたいところです。

9. もっと知()る

エピクロスは、原()典()がとても短()いので、本()人()の言葉()に直()接()あたれるのが強()みです。順()番()はこう。

読()む順()の目()安()

  1. まず「メノイケウス宛()の手紙()」。岩()波()文()庫()『エピクロス——教()説()と手紙()』に入()っています。数()ページで、幸()福()論()・欲()望()の分()類()・死()生()観()の核()心()が読()める。ここだけでも十分()です。
  2. 続()けて「主()要()教()説()」の格()言()。短()い金()言()集()で、拾()い読()みできます。
  3. もっと知()りたければ、ルクレティウス『物()の本()性()について』。原()子()論()を壮()大()な詩()にした古()典()で、とくに第()3巻()「死()の恐()怖()」が読()みどころ。ただし長()いので、核()心()を掴()んでから。

ひとつ注()意()を。書()店()で「快()楽()主()義()の哲()学()」といったタイトルの本()を見()かけますが、その「快()楽()主()義()」という言葉()が、この章()で見()てきた誤()解()を招()きます。手()に取()るなら、エピクロスの「快()楽()」が”苦()痛()の欠()如()”だと分()かったうえで読()んでください。

10. まだ決着()していないこと(両()論()ボックス)


このサイトは、確()定()した史()実()と、解()釈()が割()れる論()点()を分()けて記()述()しています。崇()拝()も断()罪()もせず、出典()に当()たれる形()を心()がけました。エピクロスについては特()に、本()人()が説()いたことと、後()世()が彼()の名()に貼()りつけた正()反()対()のイメージを、分()けるよう努()めています。

もっと知()る — ブックガイド

入()門()(まずここから)

  • 小()池()澄夫()・瀬口()昌久()『ルクレティウス…愉()しや、嵐()の海()に』(岩()波()) 読()みやすい解()説()。
  • グリーンブラット『一()四()一()七()年()、その一冊()がすべてを変()えた』 写()本()再()発見()の物語()。読()み物()として。

原()典()(挑()むなら)

  • エピクロス——教()説()と手紙()(岩()波()文()庫()・出隆()/岩崎允胤()訳()) 現()存()ほぼ全()著()作()。まずメノイケウス宛()書()簡()(短()く核()心())から。中()級()。
  • ルクレティウス『物()の本()性()について』(岩()波()文()庫()ほか) 原()子()論()を壮()大()な詩()に。核()心()を掴()んでから。やや難()。第()3巻()「死()の恐()怖()」が読()みどころ。