東()洋()の根() 第()5章()

ブッダ ゴータマ・シッダールタ(釈迦())

Buddha (Siddhārtha Gautama) 前()5〜4世紀()ごろ(諸()説()あり) 古()代()インド

苦()しみは執()着()から生()まれる。執()着()を手放()せば、苦()しみは消()える。

読()了()めやす 約()13分()

1. 一言()で

苦()しみは執()着()から生()まれる。執()着()を手放()せば、苦()しみは消()える。

ブッダ(前()5〜4世紀()ごろ)は、こう説()いた古()代()インドの思()想()家()です。

先()に、読()むときの構()えを2つ。ひとつ、このサイトはブッダを信()仰()の対()象()ではなく、「人()はなぜ苦()しむのか」を考()えぬいた思()想()家()として扱()います。崇()めも、こき下()ろしも、信()仰()を勧()めもしません。ふたつ、ブッダ本()人()は一冊()も書()いていません。教()えが文字()になったのは、死()後()数()百()年()たってから。だから「ここまでが史()実()、ここからは後()世()の物語()」を、ていねいに分()けて読()んでいきます。

2. いそがしい人()へ

3つだけ、先()に。

  • 核()心():「変()わらない自()分()」という思()い込()みを外()す。苦()しみは、移()ろうものに「変()わるな」としがみつくことから生()まれる。
  • なぜ重()要():身()分()でも、儀()式()でもなく、自()分()の心()を観()察()するだけで救()われるとした。生()まれで人()生()が決()まる時()代()に、これは巨()大()な”民()主()化()”でした。
  • よくある誤()解():キーワードは、ほぼ「逆()」に受()け取()られがちです。「苦()」は悲()観()、「無()我()」は自()分()の消()去()、「涅槃()」は死()。どれも本()当()の意()味()とずれています(中()身()は本()文()で)。生()誕()の奇()跡()や四門()出()遊()といった劇()的()な逸()話()も、後()世()の脚()色()です。

3. どんな人()?

ブッダの思()想()は、頭()で考()えた理()屈()ではありません。「生()きるのは、なぜこんなに苦()しいのか」という、切()実()な問()いから出()てきたものです。

時()代()は前()6〜5世紀()ごろの北()インド。ちょうど都()市()と商()売()が栄()えて、それまで世()の中()を仕()切()っていた、生()まれと儀()式()の権()威()がぐらつき始()めた頃()です。「決()められた人()生()を捨()てて、真()理()を探()しに出()る」自()由()な修()行()者()沙()門()が、たくさん現()れました。ブッダも、その一人()として出発()します。おもしろいことに、これは孔()子()やソクラテスとほぼ同()じ時()代()、世()界()のあちこちで、ものを根本()から考()え直()す人()が同()時()に現()れた時()期()でした。

ブッダ自()身()は、シャカ族()の支()配()層()に生()まれた、いわば良()家()の子()です。結婚()して、息子()もいた。でも、老()い・病()・死()という、誰()にも避()けられない苦()しみを前()に、20代()後()半()で家()も地()位()も捨()てて出家()します。

最()初()は、体()を痛()めつける激()しい修()行()に打()ち込()みました。断()食()して、骨()と皮()になるまで。でも、それでは、何()も解()決()しなかった。 そこで彼()は苦()行()をやめ、極()端()に走()らない 中()道() ちゅうどう 快()楽()にも苦()行()にも偏()らない道()。『足()して二()で割()る』妥()協()ではなく、両()極()端()から自()由()になること。 という道()を選()びます。そして独()自()の瞑()想()の果()てに、心()の落()ち着()き(悟()り)にたどり着()いた。以()後()45年()、身()分()も性()別()も問()わず教()えを説()いてまわり、80歳()で亡()くなりました。

ここで一()つ、おもしろい事()実()を。ブッダは、実()在()したのか? 19世紀()末()まで、それを疑()う声()もありました。ところが1898年()、インド北()部()のピプラハワで、古()い壺()が見()つかります。そこに刻()まれていたのは「シャカ族()の……ブッダの遺()骨()の容()器()」という、ブッダに触()れた最()古()級()の文字()資()料()の一()つ。これで、実()在()への疑()問()はほぼ消()えました。伝()説()の人()ではなく、確()かにいた一人()の人間()だった、と。

4. 中()心()となる考()え

この章()で、ブッダが外()した「思()い込()み」

ブッダの教()えは、ぜんぶ一()つの気()づきから始()まります。「変()わらない自()分()」なんて、どこにもない。

この人()が押()した、前()提()のスイッチ

登()場()前()の常()識()

私()の正()体()は、永()遠()の魂()(アートマン)だ。

ブッダ以()後()

確()かな「私()」など無()い(無()我())。

当()時()のインドでは、こう信()じられていました。人()の奥()には、生()まれ変()わっても消()えない永()遠()の魂()(アートマン)があって、それが本()当()の「私()」だ、と。ブッダは、自()分()の心()と体()をじっと観()察()して、こう結()論()します。「そんな確()かな芯()は、どこにも見()つからない」。これが 無()我() むが 永()遠()不()変()で独()立()した『確()かな私()(魂())』など無()いという洞()察()。『自()分()が存()在()しない』という意()味()ではない。 です。

え、自()分()が無()いってこと? と不()安()になりますよね。でも、そういう意()味()じゃありません。「私()」という働()きは、ちゃんとある。ただ、それは固()定()した”モノ”ではなくて、移()り変()わる流()れなんだ、という話()です。

たとえば、川()の渦()

川()にできる渦()を、思()い浮()かべてください。渦()は「ある」ように見()える。形()もある。でも、その中()身()の水()は、一瞬()ごとに入()れ替()わっている。渦()という”固()まり”があるわけじゃなくて、水()の流()れが、たまたまその形()をとっているだけ。

ブッダの言()う「私()」も、これと同()じ。体()や心()の要()素()が、条()件()にしたがって集()まったり離()れたりしている。その流()れに「私()」と名()前()をつけているだけ、と見()ました。

なぜ、これが大()事()なのか——苦()しみの正()体()

ここからが本()番()です。ブッダが解()こうとした問()題()は、たった一()つ。「人()は、なぜ苦()しむのか」。

彼()の答()えはこうです。 苦() く(ドゥッカ) 思()い通()りにならない・満()たされない、という根()源()的()な不()満()や摩()擦()。悲()観()や厭()世()ではない。 (ドゥッカ)。思()い通()りにならない、あの感()じ。その正()体()は、 無()常() むじょう あらゆるものは絶()えず変()化()し、同()じまま留()まるものは何()ひとつない、という事()実()。 (すべては移()り変()わる)なのに、移()り変()わらないことを望()むこと。変()わってほしくない、失()いたくない、もっと欲()しい。この、しがみつく心()を 渇()愛() かつあい(タンハー) 喉()の渇()きのように、対()象()にしがみつき求()め続()ける止()まらない欲求()。苦()の原()因()。 と呼()びます。喉()がカラカラの人()が水()を求()めるような、止()まらない渇()きです。

世()界()は変()わり続()けるのに、私()たちは変()わらないものにしがみつく。このズレが、苦()しみだ、と。

じゃあ、どうする?——火()を消()す

ブッダの処()方()箋()は、シンプルです。苦()しみの燃()料()(しがみつく心())を、断()つ。

ろうそくの火()を思()い浮()かべてください。火()は、ロウと芯()と酸()素()がそろって、はじめて燃()える。一()つでも条()件()が欠()ければ、消()える。すべてが条()件()で成()り立()っている。これを 縁起() えんぎ すべては『これがあるからあれがある』と、条()件()の連()鎖()で生()じるという考()え。吉凶()占()いの『縁起()』とは別()物()。 といいます。

渇()愛()という火()も、同()じ。燃()料()がなくなれば、フッと消()える。その、火()が消()えた静()かな状()態()が 涅槃() ねはん(ニルヴァーナ) 煩()悩()の火()が吹()き消()された、苦()の生()まれない静()かな境()地()。語()源()は『吹()き消()すこと』。死()や虚()無()ではない。 です。涅槃()というと「死()」や「無()」を想()像()しがちですが、違()います。むしろ、生()き生()きと澄()んだ、苦()しみの生()まれない心()の落()ち着()き。ニルヴァーナという言葉()は、もともと「(火()を)吹()き消()す」という意()味()なんです。

で、その道()のりが「中()道()」

最()後()に、どうやってそこへ行()くか。

ブッダ自()身()、若()い頃()は体()を痛()めつける激()しい修()行()をやりました。でも、それでは解()決()しなかった。かといって、快()楽()におぼれてもダメ。そこで選()んだのが 中()道() ちゅうどう 快()楽()にも苦()行()にも偏()らない道()。『足()して二()で割()る』妥()協()ではなく、両()極()端()から自()由()になること。 。どちらの極()端()にも振()れない、まんなかの道()です。「足()して二()で割()る」ことではなく、両()極()端()から自()由()になった、ちょうどいいバランスのこと。その具()体()的()な中()身()が、見()方()・言葉()・行()い・集()中()など8つの実践() 八正道() はっしょうどう 苦()を消()すための8つの実践()(正()しい見()方()・思()考()・言葉()・行()い・生()活()・努()力()・気()づき・集()中())。 でした。

四()つの段()階()でみると、ブッダのやり方()は、お医()者()さんの診()断()にそっくりです。

  • 苦():いま苦()しんでいる(症()状()の確()認())
  • 集():原()因()は渇()愛()だ(原()因()の特()定())
  • 滅():原()因()を断()てば治()る(治()る、と知()る)
  • 道():その治()療()法()が八正道()(処()方())

これを 四聖()諦() ししょうたい 苦()・集()・滅()・道()。『苦()の現()実()→原()因()→消()せる→消()す道()』という、医()者()の診()断()のような4段階()。 といいます。むずかしい言葉()ですが、中()身()は「苦()しみを、感()情()でなく”解()くべき問()題()”として、冷()静()に扱()う手()順()」です。

5. キーワード

4章()で出()てきた言葉()は、カードでいつでも引()けます。あと少()しだけ、知()っておくと見()通()しがよくなる言葉()を足()します。

  • 三法印() さんぼういん 仏教()を仏教()たらしめる3つの旗()印()。諸()行()無()常()・諸()法()無()我()・涅槃()寂()静()。「一切皆苦()」を加()えて四()法印()とも。 (さんぼういん):仏教()を仏教()たらしめる3つの旗()印()。「諸()行()無()常()(すべて移()ろう)」「諸()法()無()我()(確()かな我()は無()い)」「涅槃()寂()静()(苦()の火()が消()えた静()けさ)」。これに「一切皆苦()(思()い通()りにならない)」を加()えて、四()法印()とも呼()びます。この章()の話()は、ほぼこれらに集()約()されます。
  • 業()・輪廻() ごう・りんね 行()いが後()に影()響()を残()し、生()死()を繰()り返()すという、ブッダの時()代()のインドの共()通()前()提()。ブッダは枠組()みを借()りつつ、無()我()の立場()から問()い直()した。 (ごう・りんね):行()いが後()に影()響()を残()し、生()死()を繰()り返()す、という、ブッダの時()代()のインドの共()通()前()提()。ブッダはこの枠組()みを借()りつつ、「では何()が生()まれ変()わるのか?」を無()我()の立場()から問()い直()しました(その難()しさは6章()で)。

(※ 縁起()・無()常()・無()我()・苦()・渇()愛()・四聖()諦()・八正道()・涅槃()・中()道()・解()脱()・五蘊()は、本()文()中()のカードで、いつでも引()けます。)

6. 批()判()・論()争()・後()世()の変()容()

ブッダの教()えも、真()空()で生()まれたわけではありません。同()時()代()の論()争()、後()世()の理()論()的()な難()問()、そして死()後()の大()きな変()容()の3層()に分()けて見()ます。

(a) 当()時()の論()争()

ブッダの教()えは、生()まれと儀()式()で人()を序()列()づけるバラモンの権()威()への、強()い批()判()を含()んでいました。だから反発()も大()きかった。同()時()代()には、ほかにも有()力()な自()由()思()想()家()たちがいて(仏教()側()はまとめて「六()師()外()道()」と呼()びます)、激()しく論()争()しています。

なかでも、ジャイナ教()の開()祖()マハーヴィーラとの違()いが鮮()やかです。ジャイナ教()は、徹底()した苦()行()で過()去()の報()いを削()り落()とそうとした。ブッダは逆()に、苦()行()を捨()てて中()道()を説()いた。同()じ「苦()しみからの解()放()」を目指()しながら、方()法()が正()反()対()だったわけです。

ちなみに「外()道()」という言葉()、今()は強()い悪口()に聞()こえますが、原()語()は「渡()し場()をつくる人()」で、もとは侮()蔑()の意()味()はありませんでした。漢()字()に訳()すときに、きつい語()感()がついただけです。

(b) 現()代()からの批()判()・議()論()

いちばん有()名()な難()問()が、これです。「確()かな私()(我())が無()いなら、いったい何()が生()まれ変()わるのか?」

ブッダは「永()遠()の魂()は無()い(無()我())」と言()った。でも当()時()の常()識()である「業()・輪廻()(生()まれ変()わり)」も語()った。この2つは、よく考()えると噛()み合()いにくい。ここは見事()に説()が割()れています。

もう一()つ、現()代()から問()われるのが女()性()の扱()い。ブッダは女()性()の出家()を認()めた。当()時()としては画期的()でした。ただ、教()団()が整()っていく中()で「女()性()出家()者()は男()性()に従()うべし」という規()則()が付()いた。これを「差()別()の根()」と見()るか、「後()世()の付()け足()し」と見()るか(植木()雅俊()ら)で、評()価()が分()かれています。

(c) 死()後()の変()容()

のちの章()で見()ますが、ニーチェも死()後()に妹()の手()で歪()められました。ブッダの教()えも同()じで、死()後()に大()きく姿()を変()えました。

まず、神()格()化()。生()身()の「目覚()めた人()」が、時()代()とともに超()人()的()な存()在()へと祭()り上()げられていきます。次()に、分()裂()。亡()くなって100年()ほどで教()団()は割()れ、やがて20ほどの派()に分()かれた。そして、大()乗()仏教()の登()場()。般()若()経()や法華経()といった有()名()なお経()は、実()は後()世()に作()られたもので、ブッダが直()接()語()った言葉()ではありません(これを巡()る「大()乗()非()仏説()」という論()争()があります)。

だからこそ、研()究()者()は言葉()づかいを手()がかりに「どの経()典()が最()古()層()=ブッダの肉()声()にいちばん近()いか」を探()り続()けています。最()古()層()とされるのが『スッタニパータ』の一()部()。この章()で紹()介()した教()えは、その核()に近()いものです。

7. つながりと対()比()

ブッダは、何()を受()け継()ぎ、何()を覆()し、誰()と対()をなすのか。

源()流()と同()時()代()から。 ウパニシャッドの思()想()(永()遠()の我()・業()・輪廻())から、業()や輪廻()という”枠組()み”は引()き継()ぎつつ、その心()臓()部()だった「永()遠()の我()(アートマン)」を、無()我()でひっくり返()しました。隣()に並()ぶジャイナ教()とは、苦()行()か中()道()かで道()を分()けた。

後()世()への影()響()は、はるか遠()くまで。 インドから東()アジアへ渡()り、中国()で老()荘()思()想()と混()ざって禅()が生()まれます。論()理()より、ひらめきの一撃()で悟()る道()です。そして現()代()のマインドフルネス。瞑()想()から宗()教()色()を抜()いて医()療()に応()用()したもので、源()流()はブッダのサティ(気()づき)にあります。

西()洋()ともつながります。 哲()学()者()ショーペンハウアーが仏教()を西()洋()に本()格()紹()介()し、ストア哲()学()とも「執()着()を手放()す」点()で似()ている、とよく指()摘()されます。 → このサイトでは、孔()子()(社()会()の中()に道()を求()めた人())との対()比()、そして次()の対()決()相()手() ニーチェ へつながります。

そして、対()決()。ニーチェ × ブッダ。 これは見()ものです。二人()は、まったく同()じ場()所()から出発()します。「人()生()は、放()っておけば苦()しみだ」。でも、出()した答()えが正()反()対()。

  • ブッダ:苦()しみの燃()料()(執()着())を手放()して、火()を消()す。
  • ニーチェ:手放()さず、苦()しみごと生()を肯()定()して、超()える。

ブッダが「消()す」なら、ニーチェは「燃()やし続()ける」。

8. いまの自()分()に、どう効()くか

ブッダの瞑()想()は、いま「マインドフルネス」として世()界()的()なブームです。ストレスを減()らし、うつの再()発()を防()ぐ。実際()に効()果()も確()かめられている。「禅()」や「断()捨()離()」も、すっかり暮()らしに溶()け込()みました。入口()が広()がったのは、いいことです。これが功()。

でも、罪()もある。経()営()学()者()のパーサーは、これを「マクマインドフルネス」と皮()肉()りました。ファストフードみたいに手軽()になった瞑()想()、という意()味()です。批()判()の芯()はこうです。本()来()のブッダの瞑()想()は、欲()望()に駆()られた競()争()そのものから「降()りる」ための、かなりラディカルな実践()だった。 なのに今()は、その競()争()で「もっと効()率()よく勝()つための休()憩()術()」に化()けている。向()きが、逆()なんです。

この「向()きが逆()」というのが、実()はこのサイトの背骨()に触()れています。ブッダの瞑()想()は本()来()、生()き方()の土()台()そのものを入()れ替()える営()みでした。「そもそも、この勝負()から降()りていい」という、世()界()の見()方()の根()っこからの転()換()です。それを競()争()に勝()つための休()憩()術()に縮()めると、土()台()を変()える話()が、その場()しのぎの小()ワザに化()けてしまう。

だから、ブッダに一()度()こう問()い返()してみるといい。彼()が本()当()に問()うたのは、「どうすれば競()争()に強()くなれるか」ではありません。「そもそも、その競()争()から、降()りられないか」でした。せっかく根()っこを掘()り起()こす教()えを、枝()先()の剪()定()に使()ってしまわない。そこだけ、見()失()わずにおきたいところです。

9. もっと知()る

ブッダも、いきなり難()しい経()典()に挑()むと挫()折()します。順()番()が大()事()。

読()む順()の目()安()

  1. まず全()体()像()を、やさしく:佐々木閑()『100分()de名()著() ブッダ』、ワールポラ・ラーフラ『ブッダが説()いたこと』。
  2. 次()に、格()言()で親()しむ:中村元()訳()『ダンマパダ(真()理()のことば)』。岩()波()版()が硬()ければ、今()枝()由()郎()訳()(光()文()社())が平()易()。
  3. 最()古()層()へ:『スッタニパータ』。
  4. 史()実()と論()点()を深()く:並()川()孝()儀()、清水()俊史()『ブッダという男()』。

コツも一()つ。お経()の有()名()な一節()を見()かけたら、それが最()古()層()に近()いのか、後()世()に足()されたものかを意()識()すること。 ブッダの言葉()として広()まっている話()には、後()世()の脚()色()がかなり混()じっています。

10. まだ決着()していないこと(両()論()ボックス)


このサイトは、確()定()した史()実()と、解()釈()が割()れる論()点()を分()けて記()述()しています。崇()拝()も布()教()も断()罪()もせず、出典()に当()たれる形()を心()がけました。ブッダについては特()に、本()人()の教()えと、後()世()の伝()説()や宗()派()ごとの解()釈()を、混()ぜないよう努()めています。

もっと知()る — ブックガイド

入()門()(まずここから)

  • 佐々木閑()『100分()de名()著() ブッダ 真()理()のことば』 映()像()連()動()で初()心()者()向()き。
  • ワールポラ・ラーフラ『ブッダが説()いたこと』 上()座()部()長()老()による平()易()な教()義()解()説()の古()典()的()名()著()。
  • 中村元()『ゴータマ・ブッダ』 生()涯()研()究()の定()番()。
  • 清水()俊史()『ブッダという男()』(筑()摩(), 2023) 通()説()・現()代()的()な美()化()を問()い直()す話()題()作()。両()論()の補()助()線()に。

原()典()(挑()むなら)

  • ブッダの真()理()のことば・感()興()のことば(ダンマパダ) 中村元()訳()・岩()波()文()庫()。簡()潔()な格()言()集()。入口()に最()適()。
  • ブッダのことば(スッタニパータ) 中村元()訳()・岩()波()文()庫()。最()古()層()に近()い。やや骨太()。今()枝()由()郎()訳()(光()文()社())はより平()易()。