別室() 番()外()編()

デカルト / ウィリアム・ジェイムズ / ローティ / アーレント

  • デカルト René Descartes1596–1650
  • ウィリアム・ジェイムズ William James1842–1910
  • ローティ Richard Rorty1931–2007
  • アーレント Hannah Arendt1906–1975

メインには入()れなかった。でも、メインの議()論()を別()の角()度()から照()らす、4つの照()明()。

読()了()めやす 約()12分()

1. この部屋()について

このページも、本編()とは別()の部屋()です。「番()外()編()」。4人()の思()想()家()を、1ページにまとめて置()いています。

この4人()がメインに入()らなかったのは、重()要()でないからではありません。哲()学()史()でいえば、全()員()が超()大()物()です。ただ、このサイトの主()題()(自()己()啓()発()の”根()っこ”を問()い直()す)の、主()役()ではない。そのかわり、彼()らは照()明()になります。メインの議()論()に、別()の角()度()から光()を当()てると、本編()が立体()的()に見()えてくる。そういう4人()を、選()びました。

デカルトを知()ると、ブッダや道()元()の「自()己()を手放()す」が、どれほど過()激()かが分()かる。ジェイムズを知()ると、このサイトの読()み方()そのものが哲()学()として肯()定()される。ローティを知()ると、「真()理()はない」の行()き着()く先()が見()える。そしてアーレントを知()ると、「自()分()の頭()で考()える」が、なぜ悠()長()な趣()味()ではないのかが、分()かります。

2. いそがしい人()へ

3つだけ、先()に。

  • 核()心():本編()を照()らす4つの照()明()。「強()い自()己()」の出発()点()(デカルト)、「役()に立()つか」で決()める転()回()(ジェイムズ)、「真()理()はない」の極()北()(ローティ)、「考()えないことが悪()を生()む」(アーレント)。
  • なぜ重()要():本編()の解()像()度()が上()がる。とくにアーレントは、このサイトの背骨()(自()分()で考()える)の、いちばん重()い裏()づけになる。
  • よくある誤()解():デカルトは「神()を捨()てた合()理()主()義()者()」ではないし、ローティは自()称()「相()対()主()義()者()」ではない。有()名()な人()ほど、ラベルが雑()になる(各()節()で正()します)。

3. デカルト — 「疑()えない私()」を見()つけた人()(1596–1650)

すべてを疑()え。それでも、疑()っている私()の存()在()だけは、疑()えない。

この人()が押()した、前()提()のスイッチ

登()場()前()の常()識()

世()界()の確()かさは、外()(神()・権()威())が保()証()してくれる。

デカルト以()後()

すべてを疑()っても、疑()っている私()の存()在()だけは確()かだ。

「近()代()哲()学()の父()」デカルトがやったのは、壮()大()な疑()いの実験()でした。感()覚()は? ときどき騙()すから、信()用()できない。目()の前()の世()界()は? 夢()かもしれない。数()学()は? 万()能()の悪()霊()が私()を騙()しているかもしれない。こうして全()部()を疑()い尽()くした最()後()に、彼()は、どうしても疑()えない一点()を見()つけます。疑()っている「私()」が、いる。 騙()されているのだとしても、騙()されている私()は存()在()する。「我()思()う、ゆえに我()あり」( コギト こぎと(cogito) 「我()思()う、ゆえに我()あり」。すべてを疑()っても、疑()っている私()の存()在()だけは疑()えない——デカルトが見()つけた確()実()性()の一点()。 )。世()界()の確()かさの土()台()を、神()や権()威()という「外()」から、考()える私()という「内()」へ。この一手()が、近()代()の幕()を開()けました。

ふたつ、ラベルを正()しておきます。ひとつ、デカルトは神()を捨()てていません。コギトの後()、彼()は神()の存()在()を証()明()し直()して、外()の世()界()の確()かさを回()復()させています。変()えたのは「出発()点()」だけ。ふたつ、彼()の 心()身()二元()論() しんしんにげんろん 精()神()(考()えるもの)と身()体()・物質()(延()長()するもの)は別()物()、という考()え。近()代()科()学()の土()台()になったが、難()問()も残()した。 (精()神()と身()体()は別()物())には、当()時()から鋭()い批()判()がありました。文()通()相()手()のエリザベト王()女()の問()い。「物質()でない精()神()が、どうやって物質()の身()体()を動()かすのですか?」。デカルトは、これにうまく答()えられなかった。この難()問()は、いまも「心()の哲()学()」の宿()題()です。後()にニーチェも切()り込()みます。「考()える」という働()きから「私()」という実体()を取()り出()すのは、文法()の思()い込()みでは?

このサイトでの役()割():デカルトは、「強()い自()己()」の基()準()点()です。ブッダの無()我()も、道()元()の身()心()脱()落()も、この「疑()えない確固()たる私()」の否()定()。西()洋()が「私()」を土()台()に据()え、東()洋()が「私()」を解()体()する。その対()比()の、西()洋()側()の極()として、ここに置()きます(ソクラテスの「前()提()を疑()う」の、近()代()的()な徹底()者()でもあります)。

4. ジェイムズ — 「役()に立()つか」で決()めた人()(1842–1910)

その信()念()が本()当()かどうかより、その信()念()があなたの人()生()に何()をもたらすかを見()よ。

この人()が押()した、前()提()のスイッチ

登()場()前()の常()識()

信()念()は、客観()的()に真()かどうかで決()まる。

ジェイムズ以()後()

信()念()は、それが人()生()にもたらす結果()(役()立()つか)で決()まる。

アメリカの心()理()学()者()・哲()学()者()ジェイムズは、真()理()についての問()いを、くるりと回()転()させました。哲()学()は長()いあいだ、「その考()えは本()当()か」を問()うてきた(デカルトの系()譜()です)。ジェイムズは問()いを変()えます。「その考()えは、役()に立()つか。信()じたとき、あなたの人()生()に、どんな違()いが生()まれるか」。真()理()とは、頭()上()に輝()く星()ではなく、使()える道()具()だ。この立場()を プラグマティズム ぷらぐまてぃずむ 観()念()の真()偽()を、それが実際()にもたらす効()果()・有()用()性()で測()る立場()。米()国()生()まれの哲()学()。 といいます。

彼()の 信()じる意()志() しんじるいし(The Will to Believe) 証()拠()が出()そろわない重()大()な選()択()では、信()じる側()に賭()けてよい、というジェイムズの議()論()。※何()でも信()じてよい、ではない。 という議()論()が、その真骨頂()です。証()拠()が出()そろうまで判()断()を保()留()せよ、と科()学()は言()う。でも人()生()には、証()拠()が出()そろわないのに、選()ばずには通()れない重()大()な選()択()があります(この人()と生()きるか。人()生()に意()味()はあるか)。そういう場()面()では、「信()じる側()」に賭()けてよい。信()じること自()体()が、良()い結果()を作()り出()すことがあるから。ただし注()意()。これは「何()でも好()きに信()じてよい」ではありません。生()きた選()択()で、避()けられず、重()大()なもの。ジェイムズは条()件()を、はっきり絞()っています。

このサイトでの役()割():ジェイムズは、このサイトの読()み方()そのものを、哲()学()として肯()定()してくれる人()です。私()たちはずっと、「どの世()界()観()が正()しいか」ではなく「どの世()界()観()が、あなたを生()きやすくするか」という読()み方()を勧()めてきました。それはプラグマティズムの発想()です。フランクル(意()味()が人()を支()える)やニーチェ(価()値()は創()るもの)の、良()き隣()人()。ちなみに日本()では、西田()幾()多()郎()がジェイムズの「純()粋()経()験()」から『善()の研()究()』を組()み立()てています。

5. ローティ — 「真()理()なんてない、会()話()を続()けよう」と言()った人()(1931–2007)

唯()一()の真()理()に近()づく、という哲()学()の夢()を降()りる。できるのは、残()酷()さを減()らす会()話()を続()けることだけだ。

この人()が押()した、前()提()のスイッチ

登()場()前()の常()識()

哲()学()は、唯()一()の真()理()に近()づく営()みだ。

ローティ以()後()

真()理()という幻()想()を捨()て、苦()痛()を減()らす対()話()を続()けることが大()事()だ。

20世紀()アメリカのローティは、哲()学()の大()前()提()そのものにハンマーを振()るった人()です。プラトン以()来()、哲()学()は「心()は世()界()を映()す鏡()であり、その鏡()を磨()けば真()理()に近()づける」と信()じてきた。ローティは主()著()『哲()学()と自()然()の鏡()』で、この鏡()のイメージごと捨()てよ、と論()じました。私()たちにできるのは、真()理()への接近()ではなく、語()彙()(ものの見()方())を取()り替()えながら、よりましな会()話()を続()けることだけだ、と。

では、何()を拠()り所()に生()きるのか。彼()の答()えが アイロニー あいろにー 自()分()のいちばん深()い信()念()すら『偶()然()の産()物()かもしれない』と自()覚()しつつ、それでも使()い続()ける態()度()(ローティ)。 と連()帯()です。アイロニーとは、自()分()のいちばん深()い信()念()すら「偶()然()の産()物()かもしれない」と自()覚()しつつ、それでも使()い続()ける態()度()。そして連()帯()とは、「同()じ真()理()を信()じるから」ではなく、「苦()痛()と屈()辱()を減()らしたい」という一点()でつながること。彼()は「残()酷()さこそ最()悪()のことだ」という言葉()を、自()分()の立場()の錨()にしました(政()治()学()者()シュクラーからの借()用()です)。

このサイトでの役()割():ローティは、相()対()主()義()の極()北()です。ニーチェ(神()の死())とカミュ(意()味()の不()在())が開()けた扉()の、いちばん先()。メインの思()想()家()たちが「真()理()の探()究()」という営()みの内()側()にいるのに対()し、ローティはその外()から全()体()を眺()めさせてくれる。極()北()の位()置()を知()っておくと、本編()のそれぞれが、地()図()のどこに立()っているかが分()かります。

6. アーレント — 「思()考()停()止()が、悪()を生()む」と見()た人()(1906–1975)

巨()大()な悪()は、怪()物()が起()こすのではない。考()えることをやめた、普()通()の人々()が担()う。

この人()が押()した、前()提()のスイッチ

登()場()前()の常()識()

巨()大()な悪()は、邪()悪()な怪()物()が起()こす。

アーレント以()後()

巨()大()な悪()は、思()考()を停()止()した平()凡()な人々()が担()う。

ハンナ・アーレントは、ユダヤ系()ドイツ人()の政()治()哲()学()者()です。ナチスに追()われて亡()命()し、全()体()主()義()がなぜ可()能()になったのかを、生()涯()かけて考()え抜()きました。

彼()女()の名()を世()界()に刻()んだのが、1961年()のアイヒマン裁()判()です。数()百()万()人()のユダヤ人()を強()制()収容所()へ移()送()した、ナチスの輸()送()責()任()者()アイヒマン。傍()聴()席()のアーレントが法()廷()で見()たのは、血()に飢()えた怪()物()では、ありませんでした。命()令()と出世()を気()にする、どこにでもいる小()役()人()。精()神()鑑()定()は彼()を「正()常()」と診()断()した。アーレントはそれを、「恐()ろしいほど正()常()」と書()いた。彼()女()はここから、震()えるような概()念()を取()り出()します。 悪()の凡()庸()さ あくのぼんようさ(banality of evil) 巨()悪()は怪()物()でなく、考()えることをやめた平()凡()な人()が担()う——アーレントがアイヒマン裁()判()から取()り出()した概()念()。 。巨()悪()を可()能()にするのは、悪()魔()的()な意()志()ではない。自()分()のしていることの意()味()を、自()分()の頭()で考()えない、ということだ。

このサイトでの役()割():アーレントは、ソクラテスの「吟()味()のない人()生()は、生()きるに値()しない」という言葉()の、20世紀()の最()も切()実()な帰()結()です。そして、このサイトの背骨()(自()分()の頭()で考()える・前()提()を疑()う)が、なぜ大()事()なのかの、いちばん重()い証()人()。次()の7章()で、この照()明()を本編()全()体()に当()てます。

7. この部屋()の使()い方()

4つの照()明()の、当()て方()をまとめます。

  • デカルトの光()を当()てると、ブッダと道()元()の「自()己()を手放()す」が、何()をどれほど過()激()に否()定()しているのかが、くっきり見()えます。西()洋()4世紀()ぶんの土()台()(疑()えない私())を、東()洋()は解()体()しにかかっている。
  • ジェイムズの光()を当()てると、このサイトの読()み方()(正()しい世()界()観()ではなく、効()く世()界()観()を選()ぶ)が、単()なる折衷()ではなく、一()つの堂々()たる哲()学()だと分()かります。
  • ローティの光()を当()てると、「真()理()はない」を突()き詰()めた極()北()の位()置()が見()え、ニーチェやカミュが地()図()のどこに立()っているかを、測()れるようになります。
  • そして、アーレント。

最()後()の照()明()は、この部屋()から、本編()全()体()に向()けて当()てます。このサイトはずっと、「前()提()を疑()え」「根()っこを自()分()で選()べ」と言()ってきました。それは、気()の利()いた人()生()訓()のためではありません。考()えることをやめた普()通()の人々()が、歴()史()上()、最()悪()のことに加()担()してきた。その事()実()が、すぐ後()ろにあるからです。自()分()の頭()で考()えることは、趣()味()ではなく、悪()に加()担()しないための、最()低()条()件()。なぜ、根()を変()えるのか。このサイトの出発()点()の問()いに、アーレントは、いちばん重()い答()えをくれます。

8. もっと知()る

4人()それぞれ、1冊()ずつ目()安()を。

  1. デカルト『方()法()序()説()』(谷川()多()佳()子()訳()・岩()波()文()庫())。薄()くて、平()易()で、コギトへの道()筋()を本()人()の語()りで読()める。哲()学()の原()典()デビューに、実()は最()良()の一冊()です。
  2. ジェイムズ『プラグマティズム』(桝田啓三郎()訳()・岩()波()文()庫())。講()演()録()なので、語()り口()で読()めます。
  3. ローティは、いきなり主()著()(『偶()然()性()・アイロニー・連()帯()』)だと歯()ごたえが強()いので、現()代()思()想()の入()門()書()・解()説()書()から入()るのがおすすめ。
  4. アーレントは、NHK「100分()de名()著()」の解()説()(『全()体()主()義()の起()原()』の回())から入()って、関()心()が続()いたら『エルサレムのアイヒマン』(みすず書()房())へ。裁()判()記()録()として読()める、迫()真()の一冊()です。

9. まだ決着()していないこと(両()論()ボックス)

  • デカルトの心()身()二元()論():精()神()と物質()を分()けて近()代()科()学()を可()能()にした、偉()大()な区()分()だ/「心()と体()はどうつながるのか」という未()解()決()の難()問()を残()した(エリザベト王()女()の問()いは、いまも生()きている)。
  • ジェイムズの真()理()観():人()生()の重()大()な選()択()に効()く、実践()的()な英()知()だ/「役()に立()てば真()」はご都()合()主()義()だ(ラッセルのサンタ批()判())。※本()人()が付()けた厳()しい条()件()を、忘()れずに。
  • ローティの立場():真()理()を手放()した「何()でもあり」の虚()無()だ/残()酷()さの拒()否()という錨()は残()っている。※本()人()は「相()対()主()義()者()」のレッテルを拒()否()していました。
  • アーレントのアイヒマン像():実()像()を見()誤()った(シュタングネトの実証()批()判())/「思()考()停()止()が悪()を生()む」という概()念()の射()程()は、実()像()と独()立()に有()効()だ。
  • アーレントとハイデガー:「考()えよ」と説()いた人()がナチ加()担()者()を擁()護()した倫()理()的()矛()盾()だ/人間()関()係()の複()雑()さと思()想()の価()値()は、切()り分()けるべきだ。未()決着()のまま、置()いておきます。

このサイトは、確()定()した史()実()と、解()釈()が割()れる論()点()を分()けて記()述()しています。崇()拝()も断()罪()もせず、出典()に当()たれる形()を心()がけました。この4人()については特()に、一人()ひとりを深掘()りするのではなく、本編()の思()想()家()たちを別()の角()度()から照()らす「照()明()」として、その位()置()と接()続()を正()確()に示()すよう努()めています。

もっと知()る — ブックガイド

入()門()(まずここから)

  • 方()法()序()説()(デカルト/谷川()多()佳()子() 訳()・岩()波()文()庫()) 薄()くて平()易()。コギトへの道()筋()を本()人()の語()りで。哲()学()原()典()の入()門()として最()良()の一冊()。
  • プラグマティズム(ジェイムズ/桝田啓三郎() 訳()・岩()波()文()庫()) 講()演()録()で読()みやすい。
  • 偶()然()性()・アイロニー・連()帯()(ローティ/齋()藤()純()一()ほか訳()・岩()波()書()店()) 主()著()。中()〜上()級()。まず入()門()書()や解()説()から。
  • エルサレムのアイヒマン(アーレント/大久保()和郎() 訳()・みすず書()房()) 悪()の凡()庸()さの原()典()。裁()判()記()録()として読()める。中()級()。
  • NHK「100分()de名()著()」アーレント『全()体()主()義()の起()原()』(仲正昌樹()) アーレント超()入()門()。まずここから。