1. この部屋( へや ) について
このページも、本編( ほんぺん ) とは別( べつ ) の部屋( へや ) です。 「番( ばん ) 外( がい ) 編( へん ) 」 。4人( よにん ) の思( し ) 想( そう ) 家( か ) を、1ページにまとめて置( お ) いています。
この4人( よにん ) がメインに入( はい ) らなかったのは、重( じゅう ) 要( よう ) でないからではありません。哲( てつ ) 学( がく ) 史( し ) でいえば、全( ぜん ) 員( いん ) が超( ちょう ) 大( おお ) 物( もの ) です。ただ、このサイトの主( しゅ ) 題( だい ) (自( じ ) 己( こ ) 啓( けい ) 発( はつ ) の”根( ね ) っこ”を問( と ) い直( なお ) す)の、 主( しゅ ) 役( やく ) ではない。そのかわり、彼( かれ ) らは 照( しょう ) 明( めい ) になります。メインの議( ぎ ) 論( ろん ) に、別( べつ ) の角( かく ) 度( ど ) から光( ひかり ) を当( あ ) てると、本編( ほんぺん ) が立体( りったい ) 的( てき ) に見( み ) えてくる。そういう4人( よにん ) を、選( えら ) びました。
デカルトを知( し ) ると、ブッダや道( どう ) 元( げん ) の「自( じ ) 己( こ ) を手放( てばな ) す」が、どれほど過( か ) 激( げき ) かが分( わ ) かる。ジェイムズを知( し ) ると、このサイトの読( よ ) み方( かた ) そのものが哲( てつ ) 学( がく ) として肯( こう ) 定( てい ) される。ローティを知( し ) ると、「真( しん ) 理( り ) はない」の行( い ) き着( つ ) く先( さき ) が見( み ) える。そしてアーレントを知( し ) ると、「自( じ ) 分( ぶん ) の頭( あたま ) で考( かんが ) える」が、なぜ悠( ゆう ) 長( ちょう ) な趣( しゅ ) 味( み ) ではないのかが、分( わ ) かります。
2. いそがしい人( ひと ) へ
3つだけ、先( さき ) に。
核( かく ) 心( しん ) :本編( ほんぺん ) を照( て ) らす4つの照( しょう ) 明( めい ) 。「強( つよ ) い自( じ ) 己( こ ) 」の出発( しゅっぱつ ) 点( てん ) (デカルト)、「役( やく ) に立( た ) つか」で決( き ) める転( てん ) 回( かい ) (ジェイムズ)、「真( しん ) 理( り ) はない」の極( きょく ) 北( ほく ) (ローティ)、「考( かんが ) えないことが悪( あく ) を生( う ) む」(アーレント)。
なぜ重( じゅう ) 要( よう ) :本編( ほんぺん ) の解( かい ) 像( ぞう ) 度( ど ) が上( あ ) がる。とくにアーレントは、このサイトの背骨( せぼね ) (自( じ ) 分( ぶん ) で考( かんが ) える)の、いちばん重( おも ) い裏( うら ) づけになる。
よくある誤( ご ) 解( かい ) :デカルトは「神( かみ ) を捨( す ) てた合( ごう ) 理( り ) 主( しゅ ) 義( ぎ ) 者( しゃ ) 」ではないし、ローティは自( じ ) 称( しょう ) 「相( そう ) 対( たい ) 主( しゅ ) 義( ぎ ) 者( しゃ ) 」ではない。有( ゆう ) 名( めい ) な人( ひと ) ほど、ラベルが雑( ざつ ) になる(各( かく ) 節( せつ ) で正( ただ ) します)。
3. デカルト — 「疑( うたが ) えない私( わたし ) 」を見( み ) つけた人( ひと ) (1596–1650)
すべてを疑( うたが ) え。それでも、疑( うたが ) っている私( わたし ) の存( そん ) 在( ざい ) だけは、疑( うたが ) えない。
この人( ひと ) が押( お ) した、前( ぜん ) 提( てい ) のスイッチ
登( とう ) 場( じょう ) 前( まえ ) の常( じょう ) 識( しき ) 世( せ ) 界( かい ) の確( たし ) かさは、 外( そと ) (神( かみ ) ・権( けん ) 威( い ) )が保( ほ ) 証( しょう ) してくれる。
↻ 登( とう ) 場( じょう ) 前( まえ ) の常( じょう ) 識( しき ) に戻( もど ) す スイッチを切( き ) る → 書( か ) き換( か ) える デカルト以( い ) 後( ご ) すべてを疑( うたが ) って も、 疑( うたが ) っている私( わたし ) の存( そん ) 在( ざい ) だけは確( たし ) かだ。
「近( きん ) 代( だい ) 哲( てつ ) 学( がく ) の父( ちち ) 」デカルトがやったのは、壮( そう ) 大( だい ) な 疑( うたが ) いの実験( じっけん ) でした。感( かん ) 覚( かく ) は? ときどき騙( だま ) すから、信( しん ) 用( よう ) できない。目( め ) の前( まえ ) の世( せ ) 界( かい ) は? 夢( ゆめ ) かもしれない。数( すう ) 学( がく ) は? 万( ばん ) 能( のう ) の悪( あく ) 霊( りょう ) が私( わたし ) を騙( だま ) しているかもしれない。こうして全( ぜん ) 部( ぶ ) を疑( うたが ) い尽( つ ) くした最( さい ) 後( ご ) に、彼( かれ ) は、どうしても疑( うたが ) えない一点( いってん ) を見( み ) つけます。 疑( うたが ) っている「私( わたし ) 」が、いる。 騙( だま ) されているのだとしても、騙( だま ) されている私( わたし ) は存( そん ) 在( ざい ) する。「 我( われ ) 思( おも ) う、ゆえに我( われ ) あり 」( コギト コギト こぎと(cogito) 「我( われ ) 思( おも ) う、ゆえに我( われ ) あり」。すべてを疑( うたが ) っても、疑( うたが ) っている私( わたし ) の存( そん ) 在( ざい ) だけは疑( うたが ) えない——デカルトが見( み ) つけた確( かく ) 実( じつ ) 性( せい ) の一点( いってん ) 。 )。世( せ ) 界( かい ) の確( たし ) かさの土( ど ) 台( だい ) を、神( かみ ) や権( けん ) 威( い ) という「外( そと ) 」から、考( かんが ) える私( わたし ) という「内( ない ) 」へ。この一手( いって ) が、近( きん ) 代( だい ) の幕( まく ) を開( ひら ) けました。
ふたつ、ラベルを正( ただ ) しておきます。ひとつ、 デカルトは神( かみ ) を捨( す ) てていません 。コギトの後( あと ) 、彼( かれ ) は神( かみ ) の存( そん ) 在( ざい ) を証( しょう ) 明( めい ) し直( なお ) して、外( そと ) の世( せ ) 界( かい ) の確( たし ) かさを回( かい ) 復( ふく ) させています。変( か ) えたのは「出発( しゅっぱつ ) 点( てん ) 」だけ。ふたつ、彼( かれ ) の 心( しん ) 身( しん ) 二元( にげん ) 論( ろん ) 心( しん ) 身( しん ) 二元( にげん ) 論( ろん ) しんしんにげんろん 精( せい ) 神( しん ) (考( かんが ) えるもの)と身( しん ) 体( たい ) ・物質( ぶっしつ ) (延( えん ) 長( ちょう ) するもの)は別( べつ ) 物( もの ) 、という考( かんが ) え。近( きん ) 代( だい ) 科( か ) 学( がく ) の土( ど ) 台( だい ) になったが、難( なん ) 問( もん ) も残( のこ ) した。 (精( せい ) 神( しん ) と身( しん ) 体( たい ) は別( べつ ) 物( もの ) )には、当( とう ) 時( じ ) から鋭( するど ) い批( ひ ) 判( はん ) がありました。文( ぶん ) 通( つう ) 相( あい ) 手( て ) のエリザベト王( おう ) 女( じょ ) の問( と ) い。「物質( ぶっしつ ) でない精( せい ) 神( しん ) が、どうやって物質( ぶっしつ ) の身( しん ) 体( たい ) を動( うご ) かすのですか?」。デカルトは、これにうまく答( こた ) えられなかった。この難( なん ) 問( もん ) は、いまも「心( こころ ) の哲( てつ ) 学( がく ) 」の宿( しゅく ) 題( だい ) です。後( あと ) にニーチェも切( き ) り込( こ ) みます。「考( かんが ) える」という働( はたら ) きから「私( わたし ) 」という実体( じったい ) を取( と ) り出( だ ) すのは、 文法( ぶんぽう ) の思( おも ) い込( こ ) み では?
このサイトでの役( やく ) 割( わり ) :デカルトは、「強( つよ ) い自( じ ) 己( こ ) 」の基( き ) 準( じゅん ) 点( てん ) です。 ブッダ の無( む ) 我( が ) も、 道( どう ) 元( げん ) の身( しん ) 心( しん ) 脱( だつ ) 落( らく ) も、この「疑( うたが ) えない確固( かっこ ) たる私( わたし ) 」の 否( ひ ) 定( てい ) 。西( せい ) 洋( よう ) が「私( わたし ) 」を土( ど ) 台( だい ) に据( す ) え、東( とう ) 洋( よう ) が「私( わたし ) 」を解( かい ) 体( たい ) する。その対( たい ) 比( ひ ) の、西( せい ) 洋( よう ) 側( がわ ) の極( きわ ) として、ここに置( お ) きます( ソクラテス の「前( ぜん ) 提( てい ) を疑( うたが ) う」の、近( きん ) 代( だい ) 的( てき ) な徹底( てってい ) 者( しゃ ) でもあります)。
4. ジェイムズ — 「役( やく ) に立( た ) つか」で決( き ) めた人( ひと ) (1842–1910)
その信( しん ) 念( ねん ) が本( ほん ) 当( とう ) かどうかより、その信( しん ) 念( ねん ) があなたの人( じん ) 生( せい ) に何( なに ) をもたらすかを見( み ) よ。
この人( ひと ) が押( お ) した、前( ぜん ) 提( てい ) のスイッチ
登( とう ) 場( じょう ) 前( まえ ) の常( じょう ) 識( しき ) 信( しん ) 念( ねん ) は、客観( きゃっかん ) 的( てき ) に真( しん ) かどうかで決( き ) まる。
↻ 登( とう ) 場( じょう ) 前( まえ ) の常( じょう ) 識( しき ) に戻( もど ) す スイッチを切( き ) る → 書( か ) き換( か ) える ジェイムズ以( い ) 後( ご ) 信( しん ) 念( ねん ) は、それが人( じん ) 生( せい ) にもたらす結果( けっか ) (役( やく ) 立( だ ) つか)で決( き ) ま る。
アメリカの心( しん ) 理( り ) 学( がく ) 者( しゃ ) ・哲( てつ ) 学( がく ) 者( しゃ ) ジェイムズは、真( しん ) 理( り ) についての問( と ) いを、くるりと回( かい ) 転( てん ) させました。哲( てつ ) 学( がく ) は長( なが ) いあいだ、「その考( かんが ) えは 本( ほん ) 当( とう ) か」を問( と ) うてきた(デカルトの系( けい ) 譜( ふ ) です)。ジェイムズは問( と ) いを変( か ) えます。「その考( かんが ) えは、 役( やく ) に立( た ) つか。信( しん ) じたとき、あなたの人( じん ) 生( せい ) に、どんな違( ちが ) いが生( う ) まれるか」。真( しん ) 理( り ) とは、頭( ず ) 上( じょう ) に輝( かがや ) く星( ほし ) ではなく、 使( つか ) える道( どう ) 具( ぐ ) だ。この立場( たちば ) を プラグマティズム プラグマティズム ぷらぐまてぃずむ 観( かん ) 念( ねん ) の真( しん ) 偽( ぎ ) を、それが実際( じっさい ) にもたらす効( こう ) 果( か ) ・有( ゆう ) 用( よう ) 性( せい ) で測( はか ) る立場( たちば ) 。米( べい ) 国( こく ) 生( う ) まれの哲( てつ ) 学( がく ) 。 といいます。
彼( かれ ) の 信( しん ) じる意( い ) 志( し ) 信( しん ) じる意( い ) 志( し ) しんじるいし(The Will to Believe) 証( しょう ) 拠( こ ) が出( で ) そろわない重( じゅう ) 大( だい ) な選( せん ) 択( たく ) では、信( しん ) じる側( がわ ) に賭( か ) けてよい、というジェイムズの議( ぎ ) 論( ろん ) 。※何( なに ) でも信( しん ) じてよい、ではない。 という議( ぎ ) 論( ろん ) が、その真骨頂( しんこっちょう ) です。証( しょう ) 拠( こ ) が出( で ) そろうまで判( はん ) 断( だん ) を保( ほ ) 留( りゅう ) せよ、と科( か ) 学( がく ) は言( い ) う。でも人( じん ) 生( せい ) には、 証( しょう ) 拠( こ ) が出( で ) そろわないのに、選( えら ) ばずには通( とお ) れない重( じゅう ) 大( だい ) な選( せん ) 択( たく ) があります(この人( ひと ) と生( い ) きるか。人( じん ) 生( せい ) に意( い ) 味( み ) はあるか)。そういう場( ば ) 面( めん ) では、「信( しん ) じる側( がわ ) 」に賭( か ) けてよい。信( しん ) じること自( じ ) 体( たい ) が、良( よ ) い結果( けっか ) を作( つく ) り出( だ ) すことがあるから。ただし注( ちゅう ) 意( い ) 。これは「何( なに ) でも好( す ) きに信( しん ) じてよい」ではありません。 生( い ) きた選( せん ) 択( たく ) で、避( さ ) けられず、重( じゅう ) 大( だい ) なもの。ジェイムズは条( じょう ) 件( けん ) を、はっきり絞( しぼ ) っています。
このサイトでの役( やく ) 割( わり ) :ジェイムズは、このサイトの読( よ ) み方( かた ) そのものを、哲( てつ ) 学( がく ) として肯( こう ) 定( てい ) してくれる人( ひと ) です。私( わたし ) たちはずっと、「どの世( せ ) 界( かい ) 観( かん ) が正( ただ ) しいか」ではなく「どの世( せ ) 界( かい ) 観( かん ) が、あなたを生( い ) きやすくするか」という読( よ ) み方( かた ) を勧( すす ) めてきました。それはプラグマティズムの発想( はっそう ) です。 フランクル (意( い ) 味( み ) が人( ひと ) を支( ささ ) える)や ニーチェ (価( か ) 値( ち ) は創( つく ) るもの)の、良( よ ) き隣( りん ) 人( じん ) 。ちなみに日本( にっぽん ) では、西田( にしだ ) 幾( き ) 多( た ) 郎( ろう ) がジェイムズの「純( じゅん ) 粋( すい ) 経( けい ) 験( けん ) 」から『善( ぜん ) の研( けん ) 究( きゅう ) 』を組( く ) み立( た ) てています。
5. ローティ — 「真( しん ) 理( り ) なんてない、会( かい ) 話( わ ) を続( つづ ) けよう」と言( い ) った人( ひと ) (1931–2007)
唯( ゆい ) 一( いつ ) の真( しん ) 理( り ) に近( ちか ) づく、という哲( てつ ) 学( がく ) の夢( ゆめ ) を降( お ) りる。できるのは、残( ざん ) 酷( こく ) さを減( へ ) らす会( かい ) 話( わ ) を続( つづ ) けることだけだ。
この人( ひと ) が押( お ) した、前( ぜん ) 提( てい ) のスイッチ
登( とう ) 場( じょう ) 前( まえ ) の常( じょう ) 識( しき ) 哲( てつ ) 学( がく ) は、唯( ゆい ) 一( いつ ) の真( しん ) 理( り ) に近( ちか ) づく営( いとな ) みだ。
↻ 登( とう ) 場( じょう ) 前( まえ ) の常( じょう ) 識( しき ) に戻( もど ) す スイッチを切( き ) る → 書( か ) き換( か ) える ローティ以( い ) 後( ご ) 真( しん ) 理( り ) という幻( げん ) 想( そう ) を捨( す ) て、苦( く ) 痛( つう ) を減( へ ) らす対( たい ) 話( わ ) を続( つづ ) けることが大( だい ) 事( じ ) だ。
20世紀( せいき ) アメリカのローティは、哲( てつ ) 学( がく ) の 大( だい ) 前( ぜん ) 提( てい ) そのものにハンマーを振( ふ ) るった人( ひと ) です。プラトン以( い ) 来( らい ) 、哲( てつ ) 学( がく ) は「心( こころ ) は世( せ ) 界( かい ) を映( うつ ) す鏡( かがみ ) であり、その鏡( かがみ ) を磨( みが ) けば真( しん ) 理( り ) に近( ちか ) づける」と信( しん ) じてきた。ローティは主( しゅ ) 著( ちょ ) 『哲( てつ ) 学( がく ) と自( し ) 然( ぜん ) の鏡( かがみ ) 』で、この鏡( かがみ ) のイメージごと捨( す ) てよ、と論( ろん ) じました。私( わたし ) たちにできるのは、真( しん ) 理( り ) への接近( せっきん ) ではなく、 語( ご ) 彙( い ) (ものの見( み ) 方( かた ) )を取( と ) り替( か ) えながら、よりましな会( かい ) 話( わ ) を続( つづ ) けること だけだ、と。
では、何( なに ) を拠( よ ) り所( しょ ) に生( い ) きるのか。彼( かれ ) の答( こた ) えが アイロニー アイロニー あいろにー 自( じ ) 分( ぶん ) のいちばん深( ふか ) い信( しん ) 念( ねん ) すら『偶( ぐう ) 然( ぜん ) の産( さん ) 物( ぶつ ) かもしれない』と自( じ ) 覚( かく ) しつつ、それでも使( つか ) い続( つづ ) ける態( たい ) 度( ど ) (ローティ)。 と連( れん ) 帯( たい ) です。アイロニーとは、自( じ ) 分( ぶん ) のいちばん深( ふか ) い信( しん ) 念( ねん ) すら「偶( ぐう ) 然( ぜん ) の産( さん ) 物( ぶつ ) かもしれない」と自( じ ) 覚( かく ) しつつ、それでも使( つか ) い続( つづ ) ける態( たい ) 度( ど ) 。そして連( れん ) 帯( たい ) とは、「同( おな ) じ真( しん ) 理( り ) を信( しん ) じるから」ではなく、「 苦( く ) 痛( つう ) と屈( くつ ) 辱( じょく ) を減( へ ) らしたい」という一点( いってん ) でつながること。彼( かれ ) は「残( ざん ) 酷( こく ) さこそ最( さい ) 悪( あく ) のことだ」という言葉( ことば ) を、自( じ ) 分( ぶん ) の立場( たちば ) の錨( いかり ) にしました(政( せい ) 治( じ ) 学( がく ) 者( しゃ ) シュクラーからの借( しゃく ) 用( よう ) です)。
このサイトでの役( やく ) 割( わり ) :ローティは、相( そう ) 対( たい ) 主( しゅ ) 義( ぎ ) の極( きょく ) 北( ほく ) です。ニーチェ (神( かみ ) の死( し ) )と カミュ (意( い ) 味( み ) の不( ふ ) 在( ざい ) )が開( ひら ) けた扉( とびら ) の、いちばん先( さき ) 。メインの思( し ) 想( そう ) 家( か ) たちが「真( しん ) 理( り ) の探( たん ) 究( きゅう ) 」という営( いとな ) みの内( うち ) 側( がわ ) にいるのに対( たい ) し、ローティはその 外( そと ) から全( ぜん ) 体( たい ) を眺( なが ) めさせてくれる。極( きょく ) 北( ほく ) の位( い ) 置( ち ) を知( し ) っておくと、本編( ほんぺん ) のそれぞれが、地( ち ) 図( ず ) のどこに立( た ) っているかが分( わ ) かります。
6. アーレント — 「思( し ) 考( こう ) 停( てい ) 止( し ) が、悪( あく ) を生( う ) む」と見( み ) た人( ひと ) (1906–1975)
巨( きょ ) 大( だい ) な悪( あく ) は、怪( かい ) 物( ぶつ ) が起( お ) こすのではない。考( かんが ) えることをやめた、普( ふ ) 通( つう ) の人々( ひとびと ) が担( にな ) う。
この人( ひと ) が押( お ) した、前( ぜん ) 提( てい ) のスイッチ
登( とう ) 場( じょう ) 前( まえ ) の常( じょう ) 識( しき ) 巨( きょ ) 大( だい ) な悪( あく ) は、邪( じゃ ) 悪( あく ) な怪( かい ) 物( ぶつ ) が起( お ) こす。
↻ 登( とう ) 場( じょう ) 前( まえ ) の常( じょう ) 識( しき ) に戻( もど ) す スイッチを切( き ) る → 書( か ) き換( か ) える アーレント以( い ) 後( ご ) 巨( きょ ) 大( だい ) な悪( あく ) は、思( し ) 考( こう ) を停( てい ) 止( し ) した平( へい ) 凡( ぼん ) な人々( ひとびと ) が担( にな ) う。
ハンナ・アーレントは、ユダヤ系( けい ) ドイツ人( ひと ) の政( せい ) 治( じ ) 哲( てつ ) 学( がく ) 者( しゃ ) です。ナチスに追( お ) われて亡( ぼう ) 命( めい ) し、全( ぜん ) 体( たい ) 主( しゅ ) 義( ぎ ) がなぜ可( か ) 能( のう ) になったのかを、生( しょう ) 涯( がい ) かけて考( かんが ) え抜( ぬ ) きました。
彼( かの ) 女( じょ ) の名( めい ) を世( せ ) 界( かい ) に刻( きざ ) んだのが、1961年( ねん ) のアイヒマン裁( さい ) 判( ばん ) です。数( すう ) 百( ひゃく ) 万( ばん ) 人( にん ) のユダヤ人( ひと ) を強( きょう ) 制( せい ) 収容所( しゅうようじょ ) へ移( い ) 送( そう ) した、ナチスの輸( ゆ ) 送( そう ) 責( せき ) 任( にん ) 者( しゃ ) アイヒマン。傍( ぼう ) 聴( ちょう ) 席( せき ) のアーレントが法( ほう ) 廷( てい ) で見( み ) たのは、血( ち ) に飢( う ) えた怪( かい ) 物( ぶつ ) では、ありませんでした。命( めい ) 令( れい ) と出世( しゅっせ ) を気( き ) にする、 どこにでもいる小( こ ) 役( やく ) 人( にん ) 。精( せい ) 神( しん ) 鑑( かん ) 定( てい ) は彼( かれ ) を「正( せい ) 常( じょう ) 」と診( しん ) 断( だん ) した。アーレントはそれを、「恐( おそ ) ろしいほど正( せい ) 常( じょう ) 」と書( か ) いた。彼( かの ) 女( じょ ) はここから、震( ふる ) えるような概( がい ) 念( ねん ) を取( と ) り出( だ ) します。 悪( あく ) の凡( ぼん ) 庸( よう ) さ 悪( あく ) の凡( ぼん ) 庸( よう ) さ あくのぼんようさ(banality of evil) 巨( きょ ) 悪( あく ) は怪( かい ) 物( ぶつ ) でなく、考( かんが ) えることをやめた平( へい ) 凡( ぼん ) な人( ひと ) が担( にな ) う——アーレントがアイヒマン裁( さい ) 判( ばん ) から取( と ) り出( だ ) した概( がい ) 念( ねん ) 。 。巨( きょ ) 悪( あく ) を可( か ) 能( のう ) にするのは、悪( あく ) 魔( ま ) 的( てき ) な意( い ) 志( し ) ではない。 自( じ ) 分( ぶん ) のしていることの意( い ) 味( み ) を、自( じ ) 分( ぶん ) の頭( あたま ) で考( かんが ) えない 、ということだ。
このサイトでの役( やく ) 割( わり ) :アーレントは、ソクラテス の「吟( ぎん ) 味( み ) のない人( じん ) 生( せい ) は、生( い ) きるに値( あたい ) しない」という言葉( ことば ) の、 20世紀( せいき ) の最( もっと ) も切( せつ ) 実( じつ ) な帰( き ) 結( けつ ) です。そして、このサイトの背骨( せぼね ) (自( じ ) 分( ぶん ) の頭( あたま ) で考( かんが ) える・前( ぜん ) 提( てい ) を疑( うたが ) う)が、なぜ大( だい ) 事( じ ) なのかの、いちばん重( おも ) い証( しょう ) 人( にん ) 。次( つぎ ) の7章( しょう ) で、この照( しょう ) 明( めい ) を本編( ほんぺん ) 全( ぜん ) 体( たい ) に当( あ ) てます。
7. この部屋( へや ) の使( つか ) い方( かた )
4つの照( しょう ) 明( めい ) の、当( あ ) て方( かた ) をまとめます。
デカルト の光( ひかり ) を当( あ ) てると、 ブッダ と道( どう ) 元( げん ) の「自( じ ) 己( こ ) を手放( てばな ) す」が、何( なに ) をどれほど過( か ) 激( げき ) に否( ひ ) 定( てい ) しているのかが、くっきり見( み ) えます。西( せい ) 洋( よう ) 4世紀( せいき ) ぶんの土( ど ) 台( だい ) (疑( うたが ) えない私( わたし ) )を、東( とう ) 洋( よう ) は解( かい ) 体( たい ) しにかかっている。
ジェイムズ の光( ひかり ) を当( あ ) てると、このサイトの読( よ ) み方( かた ) (正( ただ ) しい世( せ ) 界( かい ) 観( かん ) ではなく、 効( き ) く世( せ ) 界( かい ) 観( かん ) を選( えら ) ぶ)が、単( たん ) なる折衷( せっちゅう ) ではなく、一( ひと ) つの堂々( どうどう ) たる哲( てつ ) 学( がく ) だと分( わ ) かります。
ローティ の光( ひかり ) を当( あ ) てると、「真( しん ) 理( り ) はない」を突( つ ) き詰( つ ) めた極( きょく ) 北( ほく ) の位( い ) 置( ち ) が見( み ) え、 ニーチェ やカミュ が地( ち ) 図( ず ) のどこに立( た ) っているかを、測( はか ) れるようになります。
そして、アーレント 。
最( さい ) 後( ご ) の照( しょう ) 明( めい ) は、この部屋( へや ) から、本編( ほんぺん ) 全( ぜん ) 体( たい ) に向( む ) けて当( あ ) てます。このサイトはずっと、「前( ぜん ) 提( てい ) を疑( うたが ) え」「根( ね ) っこを自( じ ) 分( ぶん ) で選( えら ) べ」と言( い ) ってきました。それは、気( き ) の利( き ) いた人( じん ) 生( せい ) 訓( くん ) のためではありません。考( かんが ) えることをやめた普( ふ ) 通( つう ) の人々( ひとびと ) が、歴( れき ) 史( し ) 上( じょう ) 、最( さい ) 悪( あく ) のことに加( か ) 担( たん ) してきた。その事( じ ) 実( じつ ) が、すぐ後( うし ) ろにあるからです。自( じ ) 分( ぶん ) の頭( あたま ) で考( かんが ) えることは、趣( しゅ ) 味( み ) ではなく、悪( あく ) に加( か ) 担( たん ) しないための、最( さい ) 低( てい ) 条( じょう ) 件( けん ) 。 なぜ、根( ね ) を変( か ) えるのか 。このサイトの出発( しゅっぱつ ) 点( てん ) の問( と ) いに、アーレントは、いちばん重( おも ) い答( こた ) えをくれます。
8. もっと知( し ) る
4人( よにん ) それぞれ、1冊( いっさつ ) ずつ目( め ) 安( やす ) を。
デカルト 『方( ほう ) 法( ほう ) 序( じょ ) 説( せつ ) 』(谷川( たにがわ ) 多( た ) 佳( か ) 子( こ ) 訳( やく ) ・岩( いわ ) 波( なみ ) 文( ぶん ) 庫( こ ) )。薄( うす ) くて、平( へい ) 易( い ) で、コギトへの道( みち ) 筋( すじ ) を本( ほん ) 人( にん ) の語( かた ) りで読( よ ) める。哲( てつ ) 学( がく ) の原( げん ) 典( てん ) デビューに、実( じつ ) は最( さい ) 良( りょう ) の一冊( いっさつ ) です。
ジェイムズ 『プラグマティズム』(桝田啓三郎( ますだけいざぶろう ) 訳( やく ) ・岩( いわ ) 波( なみ ) 文( ぶん ) 庫( こ ) )。講( こう ) 演( えん ) 録( ろく ) なので、語( かた ) り口( くち ) で読( よ ) めます。
ローティ は、いきなり主( しゅ ) 著( ちょ ) (『偶( ぐう ) 然( ぜん ) 性( せい ) ・アイロニー・連( れん ) 帯( たい ) 』)だと歯( は ) ごたえが強( つよ ) いので、現( げん ) 代( だい ) 思( し ) 想( そう ) の入( にゅう ) 門( もん ) 書( しょ ) ・解( かい ) 説( せつ ) 書( しょ ) から入( はい ) るのがおすすめ。
アーレント は、NHK「100分( ぷん ) de名( めい ) 著( ちょ ) 」の解( かい ) 説( せつ ) (『全( ぜん ) 体( たい ) 主( しゅ ) 義( ぎ ) の起( き ) 原( げん ) 』の回( かい ) )から入( はい ) って、関( かん ) 心( しん ) が続( つづ ) いたら『エルサレムのアイヒマン』(みすず書( しょ ) 房( ぼう ) )へ。裁( さい ) 判( ばん ) 記( き ) 録( ろく ) として読( よ ) める、迫( はく ) 真( しん ) の一冊( いっさつ ) です。
9. まだ決着( けっちゃく ) していないこと(両( りょう ) 論( ろん ) ボックス)
デカルトの心( しん ) 身( しん ) 二元( にげん ) 論( ろん ) :精( せい ) 神( しん ) と物質( ぶっしつ ) を分( わ ) けて近( きん ) 代( だい ) 科( か ) 学( がく ) を可( か ) 能( のう ) にした、偉( い ) 大( だい ) な区( く ) 分( ぶん ) だ/「心( こころ ) と体( からだ ) はどうつながるのか」という未( み ) 解( かい ) 決( けつ ) の難( なん ) 問( もん ) を残( のこ ) した(エリザベト王( おう ) 女( じょ ) の問( と ) いは、いまも生( い ) きている)。
ジェイムズの真( しん ) 理( り ) 観( かん ) :人( じん ) 生( せい ) の重( じゅう ) 大( だい ) な選( せん ) 択( たく ) に効( き ) く、実践( じっせん ) 的( てき ) な英( えい ) 知( ち ) だ/「役( やく ) に立( た ) てば真( しん ) 」はご都( つ ) 合( ごう ) 主( しゅ ) 義( ぎ ) だ(ラッセルのサンタ批( ひ ) 判( はん ) )。※本( ほん ) 人( にん ) が付( つ ) けた厳( きび ) しい条( じょう ) 件( けん ) を、忘( わす ) れずに。
ローティの立場( たちば ) :真( しん ) 理( り ) を手放( てばな ) した「何( なに ) でもあり」の虚( きょ ) 無( む ) だ/残( ざん ) 酷( こく ) さの拒( きょ ) 否( ひ ) という錨( いかり ) は残( のこ ) っている。※本( ほん ) 人( にん ) は「相( そう ) 対( たい ) 主( しゅ ) 義( ぎ ) 者( しゃ ) 」のレッテルを拒( きょ ) 否( ひ ) していました。
アーレントのアイヒマン像( ぞう ) :実( じつ ) 像( ぞう ) を見( み ) 誤( あやま ) った(シュタングネトの実証( じっしょう ) 批( ひ ) 判( はん ) )/「思( し ) 考( こう ) 停( てい ) 止( し ) が悪( あく ) を生( う ) む」という概( がい ) 念( ねん ) の射( しゃ ) 程( てい ) は、実( じつ ) 像( ぞう ) と独( どく ) 立( りつ ) に有( ゆう ) 効( こう ) だ。
アーレントとハイデガー :「考( かんが ) えよ」と説( と ) いた人( ひと ) がナチ加( か ) 担( たん ) 者( しゃ ) を擁( よう ) 護( ご ) した倫( りん ) 理( り ) 的( てき ) 矛( む ) 盾( じゅん ) だ/人間( にんげん ) 関( かん ) 係( けい ) の複( ふく ) 雑( ざつ ) さと思( し ) 想( そう ) の価( か ) 値( ち ) は、切( き ) り分( わ ) けるべきだ。未( み ) 決着( けっちゃく ) のまま、置( お ) いておきます。
このサイトは、確( かく ) 定( てい ) した史( し ) 実( じつ ) と、解( かい ) 釈( しゃく ) が割( わ ) れる論( ろん ) 点( てん ) を分( わ ) けて記( き ) 述( じゅつ ) しています。崇( すう ) 拝( はい ) も断( だん ) 罪( ざい ) もせず、出典( しゅってん ) に当( あ ) たれる形( かたち ) を心( こころ ) がけました。この4人( よにん ) については特( とく ) に、一人( ひとり ) ひとりを深掘( ふかぼ ) りするのではなく、本編( ほんぺん ) の思( し ) 想( そう ) 家( か ) たちを別( べつ ) の角( かく ) 度( ど ) から照( て ) らす「照( しょう ) 明( めい ) 」として、その位( い ) 置( ち ) と接( せつ ) 続( ぞく ) を正( せい ) 確( かく ) に示( しめ ) すよう努( つと ) めています。