近()代()の断()層() 第()13章()

フランクル ヴィクトール・E・フランクル

Viktor E. Frankl 1905–1997 20世紀()ウィーン

人()生()に意()味()を問()うな。人()生()が、あなたに問()いかけている。

読()了()めやす 約()13分()

1. 一言()で

人()生()に意()味()を問()うな。人()生()が、あなたに問()いかけている。

フランクル(1905–1997)は、こう説()いたウィーンの精()神()科()医()です。ナチスの強()制()収容所()を生()き延()び、その体()験()から『夜()と霧()』を書()いた人()、として知()られています。

先()に、読()むときの構()えを2つ。ひとつ、このサイトはフランクルを「苦()しみにどう向()き合()うか」を考()えた思()想()家()として扱()います。ふたつ(ここが大()事()です)、『夜()と霧()』を、感()動()の実()話()として丸()呑()みにはしません。実()は近()年()、この本()の証()言()には、史()実()をめぐる検()証()があります。崇()めず、こき下()ろさず、「確()かなこと」と「議()論()があること」を分()けて読()んでいきます。

2. いそがしい人()へ

3つだけ、先()に。

  • 核()心():意()味()は「自()分()で作()る」ものでも「探()し当()てる宝()物()」でもない。今()この状()況()が、あなたに出()している”問()い”に、行()動()で答()えること。
  • なぜ重()要():「人()生()に意()味()はあるのか」という問()いの向()きを、逆()さにした。どんな絶()望()の中()にも「自()分()が果()たすべき応()答()」が残()る、という足()場()を与()えました。
  • よくある誤()解():「意()味()への意()志()」は前()向()き名()言()ではない。「苦()しみに意()味()がある」は苦()しみの美()化()ではない(避()けられる苦()しみは避()けるのが先())。『夜()と霧()』のアウシュヴィッツ像()にも、後()で触()れる検()証()があります。

3. どんな人()?

フランクルは、20世紀()前()半()のウィーンに生()まれたユダヤ人()の精()神()科()医()です。当()時()のウィーンは、心()の学()問()の中()心()地()でした。10代()でフロイトと手紙()をやりとりし、やがてアドラーのグループに入()ります。でも、二人()の「人間()を、欲()望()や劣等()感()といった仕()組()みに切()り詰()めて説()明()する見()方()」に、だんだん我()慢()ができなくなった。人間()には、もっと別()の(意()味()を求()める)次()元()があるはずだ。そう考()えて、独()自()の心()理()療()法()ロゴセラピーを立()ち上()げます。

ここで、この先()の章()で大()事()になる事()実()を一()つ。彼()の理()論()の骨組()みは、収容所()に入()るより前()、1930年代()にはもう出()来()ていました。 これは大()事()なので、覚()えておいてください。

そして1938年()、ナチスがオーストリアを併()合()します。1942年()、フランクルは妻()と両()親()とともに収容所()へ送()られた。約()3年()で4つの収容所()を経()て、1945年()に解()放()されます。でも、妻()も、両()親()も、兄()も、収容所()で亡()くなりました。 生()き延()びたのは、彼()一人()に近()かった。

戦()後()はウィーンに戻()り、大()学()教()授()として、また世界中()をまわる講()演()者()として、晩()年()まで活()動()しました。

【小()さな訂()正()】よく「フランクルの囚()人()番()号()119104は、アウシュヴィッツで腕()に彫()られた入()れ墨()だ」と紹()介()されます。でも、これは事()実()ではありません。アウシュヴィッツで入()れ墨()を入()れられたのは登()録()された囚()人()だけで、彼()は登()録()されない”通()過()囚()人()”でした。この番()号()は、別()の収容所()(ダッハウ系())のものです。こういう細()かい事()実()を正()しておくのが、この人()を語()るときの作()法()になります。

4. 中()心()となる考()え

この章()で、フランクルがひっくり返()した「問()いの向()き」

フランクルの考()えは、たった一()つの逆()転()に集()約()できます。「人()生()に意()味()はあるのか」と問()うのを、やめなさい。問()いかけているのは、人()生()のほうだ。

この人()が押()した、前()提()のスイッチ

登()場()前()の常()識()

私()が、人()生()に意()味()を問()う。

フランクル以()後()

人()生()が、私()に問()いかけている。

私()たちはつい、こう考()えます。「私()の人()生()に、どんな意()味()があるんだろう」「人()生()は、私()に何()をくれるんだろう」。人()生()に向()かって、答()えを要()求()している。でも、思()い通()りの答()えが返()ってこないと、「人()生()は不()公()平()だ」と落()ち込()む。

フランクルは、この向()きを逆()さにしました。問()うているのは、あなたじゃない。人()生()のほうが、あなたに問()いかけている。 「この状()況()で、お前()はどうする?」と。あなたの仕事()は、その問()いに、自()分()の行()動()と態()度()で”答()える”こと。彼()はこれを コペルニクス的()転()回() こぺるにくすてきてんかい 『私()が人()生()に意()味()を問()う』を『人()生()が私()に問()う』へ逆()転()させる発想()。 と呼()びました。地()球()が宇()宙()の中()心()だと思()っていたのが、実()は回()っているのは自()分()のほうだった。あの発想()の逆()転()です。

意()味()は「作()る」のでも「探()す」のでもない

ここがフランクルの独()特()なところ。意()味()は、ニーチェのように自()分()でゼロから創()るものでもないし、どこかに隠()された宝()物()を探()し当()てることでもない。今()、目()の前()の状()況()の中()に、もうある。 あなた宛()ての問()いとして。あとは、それに気()づいて、応()えるだけ。

意()味()の受()け取()り方()は、3つあります。

  • 創()造()価()値() そうぞうかち 仕事()や行()いを通()じて世()界()に何()かを与()えることで実()現()する意()味()。 :何()かを成()したり、作()ったり、誰()かのために動()くこと。
  • 体()験()価()値() たいけんかち 愛()・美()・自()然()などを受()け取()ることで実()現()する意()味()。 :美()しいものに触()れたり、誰()かを愛()したり。世()界()から受()け取()ること。
  • 態()度()価()値() たいどかち 病()・死()など変()えられない運()命()に、どんな態()度()で向()き合()うかで実()現()する価()値()。苦()しみの美()化()ではない。 :そして、これが一()番()大()事()。変()えられない運()命()に、どう向()き合()うか。

一()番()大()事()な「態()度()価()値()」

3つ目()だけ、特()別()です。

仕事()もできない、誰()かを愛()する余()裕()もない、もう何()も変()えられない。そんな極()限()でも、最()後()に一()つだけ残()るものがある。「それにどんな態()度()で向()き合()うか」という自()由()です。避()けられない病()や別()れを、取()り乱()して終()わるのか、それとも尊()厳()をもって引()き受()けるのか。これを 態()度()価()値() たいどかち 病()・死()など変()えられない運()命()に、どんな態()度()で向()き合()うかで実()現()する価()値()。苦()しみの美()化()ではない。 といいます。

ここは誤()解()されやすいので、はっきり言()っておきます。これは「苦()しみは素()晴()らしい、喜()んで受()け入()れろ」という話()ではありません。 避()けられる苦()しみは、避()けるのが先()。態()度()価()値()が出()てくるのは、どうやっても変()えられない運()命()に直()面()した、そのときだけ。苦()しみの美()化()ではなく、もう逃()げ場()のない場()所()に残()された、最()後()の自()由()の話()です。

なぜ、これが「強()い」のか

この逆()転()の効()きどころは、ここです。

「私()が人()生()に意()味()を問()う」立場()だと、答()えがもらえないとき、人()は手()詰()まりになる。でも「人()生()が私()に問()うている」と向()きを変()えると、どんな絶()望()の中()にも、必()ず”自()分()が果()たすべき応()答()”が残()る。状()況()がどれだけひどくても、「では、自()分()はこれにどう答()えるか」という問()いだけは、誰()にも奪()えない。

フランクルは、よくニーチェの言葉()を引()きました。「なぜ生()きるかを知()っている者()は、ほとんどどんな生()き方()にも耐()えられる」。この「なぜ(意()味())」を、人()生()の側()からの問()いとして受()け取()り直()したのが、フランクルなのです。

5. キーワード

4章()の言葉()は、カードでいつでも引()けます。あと2つ、足()しておきます。

  • 実()存()的()空()虚() じつぞんてきくうきょ 意()味()を見()いだせず、『自()分()の人()生()には何()の意()味()もない』と感()じる虚()無()感()・退()屈()。病()気()ではなく現()代()に広()い心()の状()態()。 (じつぞんてきくうきょ):意()味()を見()失()って、「自()分()の人()生()には何()の意()味()もない」と感()じる、あの虚()しさ。フランクルは、これを病()気()とは見()ませんでした。むしろ、意()味()を求()める人間()だからこそ感()じる、現()代()に広()い心()の状()態()だ、と。
  • 自()己()超()越() じこちょうえつ 自()分()のことではなく、自()分()を超()えた意()味()や他()者()へ向()かうこと。フランクルはこれを人間()の本()質()と見()た。 (じこちょうえつ):自()分()のことばかり見()るのをやめて、自()分()の外()にある意()味()や、誰()かへと向()かうこと。フランクルは、これこそ人間()の本()質()だと考()えました。「幸()せになろう」と直()接()ねらうと幸()せは逃()げる。意()味()に打()ち込()んだ”結果()”として、ついてくる、という見()方()です。

(※ 意()味()への意()志()・態()度()価()値()・創()造()価()値()・体()験()価()値()・逆()説()志()向()・反()省()除()去()・コペルニクス的()転()回()は、本()文()中()のカードで、いつでも引()けます。)

6. 批()判()・限()界()

フランクルは、世界中()に希()望()を配()った人()です。でも、だからこそ、冷()静()な批()判()もきちんと知()っておきたい。3層()に分()けます。

(a) 当()時()の文()脈()

師()であるフロイトは、人()を動()かすのは「快()楽()への意()志()」だと考()えました。アドラーは「権()力()への意()志()」。フランクルは、それでは人間()を仕()組()みに切()り詰()めすぎている、と反発()し、「意()味()への意()志()」を掲()げます。ただ、無()意()識()を深()く掘()る精()神()分()析()が主()流()だった当()時()、彼()の考()えは「理()性()的()すぎる」「価()値()観()の押()しつけだ」と、やや異()端()あつかいされました。

(b) 現()代()心()理()学()から見()ると

おもしろいことに、今()では先()駆()者()として再()評()価()されています。認()知()行()動()療()法()(CBT)やポジティブ心()理()学()より早()く「意()味()・価()値()・未()来()」を中()心()に据()えていたからです。

実際()、効()果()の裏()づけもあります。フランクルの理()論()をもとにした末期()がん患者()向()けの心()理()療()法()は、大()規()模()な比()較()試()験()で、心()の苦()痛()をやわらげる効()果()が確()かめられました。「アウシュヴィッツで芽生()えた考()えが、現()代()の終()末()期()医()療()で、最()も根()拠()のある手()法()の一()つになった」。これは、なかなかすごい話()です。

一方()で、弱()点()もはっきりしています。「意()味()への意()志()」のような概()念()は、測()りにくい。「人()生()の目()的()」をはかる代()表()的()なテストも、「結局()うつの度()合()いを測()っているだけでは」と批()判()されてきました。大()規()模()な検()証()は、まだ限()られています。

(c) 思()想()・倫()理()の面()から

いちばん重()い批()判()が、これです。「人()はどんな状()況()でも態()度()を選()べる」という教()えは、裏返()すと、「意()味()を見出()せず苦()しんでいるのは、お前()の心()がけの問()題()だ」という自()己()責()任()論()に、転()びかねない。

文()芸()批()評()家()のランガーは、『夜()と霧()』を「どこか不()気()味()だ」とまで評()しました。生()き延()びたことを「前()向()きだったから」と説()明()すると、前()向()きだったのに殺()された何()百()万()もの人()を、暗()に貶()めることになりかねない、と。

7. つながりと対()比()

フランクルは、誰()に学()び、誰()と袂()を分()かち、誰()と対()をなすのか。

師()であり、対()立()点()でもあるのが、フロイトとアドラー。 両()方()に学()びながら、「人間()を仕()組()みに還()元()する」点()で決()別()しました。思()想()の根()っこには、キルケゴールやヤスパースの実()存()主()義()が流()れています。ストア哲()学()とも、「変()えられないものは受()け入()れ、自()分()の態()度()にだけ自()由()を見()る」点()で似()ています。ただしストアが心()の平()静()を目指()すのに対()し、フランクルは意()味()への能()動()的()な打()ち込()みを重()んじる点()が違()います。

そして、ニーチェ。 フランクルは、ニーチェのあの言葉()「なぜ生()きるかを知()る者()は、どんな生()き方()にも耐()えられる」を、繰()り返()し引()きました。でも、向()きを、逆()さにして使()ったのです。 ニーチェは「意()味()は自()分()で創()れ」。フランクルは「意()味()はすでにそこにあり、見()つけて応()えよ」。ニーチェのニヒリズムを、自()分()の枠組()みで乗()り越()えようとした、とも言()えます。 → このサイトでは、ニーチェ と ブッダ につながります。

ここで、3人()を並()べてみましょう。「意()味()の三()つ巴()」です。 同()じ「苦()しみ」を前()にして、答()えが三()者()三()様()に分()かれます。

  • ニーチェ:苦()しみごと肯()定()して、超()える(自()分()で意()味()を創()る)。
  • ブッダ:執()着()を手放()して、苦()しみを消()す(意()味()を問()うこと自()体()を手放()す)。
  • フランクル:その苦()しみに、態()度()で意()味()を与()える(すでにある意()味()に応()える)。

ニーチェが「燃()やす」、ブッダが「消()す」なら、フランクルは「意()味()を見()いだす」。3人()のうちフランクルだけが、苦()しみを”意()味()の担()い手()”として、積極()的()に手()元()に残()します。 この違()いは、比()較()表()で並()べると一目()です。

8. いまの自()分()に、どう効()くか

『夜()と霧()』は、世()界()で1600万()部()を超()えるロングセラーです。自()己()啓()発()やビジネス書()の源()流()の一()つでもあります。コヴィーの『7つの習()慣()』が広()めた「刺()激()と反応()のあいだには、選()ぶ自()由()がある」という言葉()。世界中()でフランクルの言葉()として引()用()されていますが、実()は本()人()の著()作()には見()つかっていません。コヴィー自()身()が「著()者()名()不()明()の本()で読()んだ」と語()り、フランクル研究所()も本()人()の言葉()ではないと注()記()しています。思()想()はフランクル的()。でも、言葉()は本()人()のものではない。このサイトで何()度()も見()た”看()板()と中()身()のズレ”が、ここにもあります。それでも、苦()しい人()に希()望()を配()り続()けてきた。これが功()。

でも、罪()もある。彼()の思()想()は、文()脈()を切()り離()されると、簡()単()に薄()まります。フランクルが「避()けられない苦()しみに限()って」と慎()重()に言()ったこと。それが、「どんなときもポジティブであれ」「すべての出来事()に意()味()がある(学()びがある)」という、ふわっとした精()神()論()にすり替()わる。すると、「つらいのは、お前()の考()え方()がネガティブだからだ」という自()己()責()任()の道()具()になってしまう。劣()悪()な職()場()環()境()すら「心()の持()ちよう」の問()題()にされかねない。

そして、この薄()まり方()には、見()覚()えがあるはずです。ニーチェの「運()命()を愛()せ」が前()向()き名()言()に、ブッダの「執()着()を手放()す」がリラックス術()に縮()められたのと、そっくり同()じことが起()きている。偉()大()な思()想()は、繰()り返()し同()じ運()命()をたどります。生()き方()の最()上()層()を問()い直()すはずだったものが、いつのまにか”気()の持()ちよう”という小()手()先()に丸()められてしまう。 これは、このサイトがずっと言()いたいことの、核()心()です。

フランクルが本()当()に問()うたのは、「どうすれば前()向()きになれるか」ではありません。「逃()げ場()のない運()命()の前()で、それでもお前()はどう応()えるか」でした。フランクル自()身()、自()分()の名()が安()直()な成()功()法()則()に使()われることを、「ロゴセラピーの薄()い模()倣()だ」と皮()肉()ったと伝()えられています。その皮()肉()を、忘()れずにおきたいところです。

9. もっと知()る

フランクルは、入口()がやさしい人()です。順()番()はこう。

読()む順()の目()安()

  1. まず『夜()と霧() 新版()』(池田()香()代()子()訳())で、全()体()像()と感()動()をつかむ。読()みやすい新()訳()です。
  2. 次()に『それでも人()生()にイエスと言()う』で、思()想()を平()易()に補()強()。1946年()の講()演()集()で、核()心()が一()番()ストレートに語()られます。
  3. 理()論()をもっと知()りたければ『意()味()への意()志()』『死()と愛()』へ。
  4. 日()常()の悩()みへの応()用()は、諸富祥彦()の解()説()書()が定()評()。

ひとつ補()足()。『夜()と霧()』には、写()真()と解()説()のついた重()厚()な旧()訳()(霜()山()徳()爾()訳())と、本()文()の力()で読()ませる流()麗()な新()訳()(池田()訳())の二()つがあります。初()めてなら新()訳()から。読()み比()べると、訳()の手触()りの違()いも楽()しめます。

10. まだ決着()していないこと(両()論()ボックス)


このサイトは、確()定()した史()実()と、解()釈()が割()れる論()点()を分()けて記()述()しています。崇()拝()も断()罪()もせず、出典()に当()たれる形()を心()がけました。フランクルについては特()に、極()限()の体()験()から生()まれた思()想()を、安()易()な感()動()話()として消()費()しないよう努()めています。

もっと知()る — ブックガイド

入()門()(まずここから)

  • 諸富祥彦()の解()説()書() ロゴセラピーを日()常()の悩()みへの応()用()として平()易()に。
  • 意()味()への意()志()/死()と愛() ロゴセラピーの理()論()を深()く知()りたい人()向()け(上()級())。

原()典()(挑()むなら)

  • 夜()と霧() 新版()(池田()香()代()子()訳()) 1977改訂()版()が底()本()。流()麗()で読()みやすい。初()心()者()向()け。
  • 夜()と霧()(旧()訳()・霜()山()徳()爾()訳()) 1947年版()が底()本()。写()真()資()料()と解()説()つき。重()厚()だがやや難()。
  • それでも人()生()にイエスと言()う(春秋()社()) 1946年()の講()演()集()。思()想()の核()が最()も平()易()・情()熱()的()。