近()代()の断()層() 第()12章()

サルトル ジャン=ポール・サルトル

Jean-Paul Sartre 1905–1980 20世紀()フランス(実()存()主()義())

生()まれつきの設計()図()なんてない。人()は、まず存()在()し、自()分()で自()分()を作()っていく。

読()了()めやす 約()16分()

1. 一言()で

生()まれつきの設計()図()なんてない。人()は、まず存()在()し、自()分()で自()分()を作()っていく。

ジャン=ポール・サルトル(1905–1980)は、こう説()いた20世紀()フランスの哲()学()者()です。「実()存()主()義()」の代()表()者()で、哲()学()・小()説()・演()劇()・政()治()参()加()のすべてで時()代()を動()かした、「行()動()する知()識()人()」の象()徴()でした。

先()に、読()むときの構()えを2つ。ひとつ、サルトルは、前()半()生()(個()人()の自()由()の哲()学())と後()半()生()(マルクス主()義()への傾()斜())で、大()きく変()わる人()です。混()ぜると訳()がわからなくなるので、このページは時()系()列()で分()けて見()ます。ふたつ、この人()は、20世紀()最()大()級()の知()識()人()であると同()時()に、政()治()的()な評()価()が激()しく割()れる人()でもあります。崇()めも、断()罪()もしません。

2. いそがしい人()へ

3つだけ、先()に。

  • 核()心():人間()には、神()や生()まれによって決()められた「本()質()(役()割()・目()的())」なんてない。まず存()在()してしまい、そのあとの選()択()で自()分()を作()っていく(実()存()は本()質()に先()立()つ)。ただしそれは、言()い訳()が一切()できない「自()由()の刑()」でもある。
  • なぜ重()要():「こう生()きるべき」という役()割()の押()しつけから人()を解()放()した。ボーヴォワールのフェミニズムをはじめ、あらゆる解()放()運()動()の理()論()的()な土()台()になった。
  • よくある誤()解():「地()獄()とは他()人()のことだ」は、“人間()関()係()って煩()わしいよね”という愚()痴()ではない(本()文()で解()きます)。そして「実()存()主()義()=暗()い虚()無()主()義()」でもない。本()人()いわく、むしろ希()望()の哲()学()です。

3. どんな人()?

1905年()、パリ生()まれ。幼()くして父()を亡()くし、学()者()の祖()父()の家()で育()ちました。

エリート校()の高()等()師()範()学校()を出()て、1929年()、哲()学()の教()授()資()格()試()験()に首()席()で合()格()します。このとき次()席()だったのが、のちに『第()二()の性()』を書()く、シモーヌ・ド・ボーヴォワール。二人()は生()涯()の伴()侶()になりますが、籍()は入()れませんでした。互()いの自()由()を認()め合()う「契()約()結婚()」のような関()係()を、50年()続()けた。「結婚()とはこういうもの」という、役()割()が先()にある制()度()を拒()む。それ自()体()が、彼()らの哲()学()の実践()でした。

第()二次()大()戦()で兵()士()として召()集()され、ドイツ軍()の捕()虜()を9か月()経()験()します。釈()放()後()は抵()抗()運()動()に関()わり、ナチス占()領()下()のパリで、主()著()『存()在()と無()』(1943)を書()き上()げた。「極()限()状()況()でも、人()は自()由()でありうるか」という彼()の問()いは、この時()代()の空()気()と切()り離()せません。

戦()後()の1945年()、講()演()「実()存()主()義()はヒューマニズムである」が大()事()件()になります。会()場()は超()満()員()、翌()日()の新()聞()に大()見()出()し。実()存()主()義()は、戦()後()の世()界()を席巻()するブームになり、サルトルはその旗()手()として、雑誌()を創()刊()し、政()治()的()発()言()を続()ける「行()動()する知()識()人()」になりました。

逸()話()をひとつ。1964年()、彼()はノーベル文()学()賞()を、自()分()の意()志()で辞()退()した史()上()最()初()の人()物()になります。理()由()は「作家()は、自()らを”制()度()”に変()えてはならない」。実()は受()賞()が決()まる前()に辞()退()の手紙()を送()っていたのですが、賞()の決定()は取()り消()せない仕()組()みで、手紙()は開()封()されないままだった、という後()日()談()つきです。

晩()年()は視()力()を失()い、1980年()に死()去()。葬()儀()には、自()発()的()な大()群()衆()が集()まりました(5万人()と言()われますが、当()日()の通()信()社()の速()報()は1.5〜2万人()。数()字()は資()料()によって割()れます)。生()前()、政()府()への抗()議()活()動()で「サルトルを逮()捕()せよ」と迫()られた大()統()領()ド・ゴールは、こう答()えたと伝()わります。「人()は、ヴォルテールを投()獄()しない」。

4. 中()心()となる考()え

この章()で、サルトルが取()り外()した「人()生()の設計()図()」

サルトルの思()想()は、一()つの宣()言()から始()まります。あなたの人()生()に、あらかじめ決()められた設計()図()なんて、ない。

この人()が押()した、前()提()のスイッチ

登()場()前()の常()識()

人間()には、生()まれつき定()まった本()質()(役()割()・意()味())がある。

サルトル以()後()

人間()は、まず存()在()し、自()分()で自()分()を作()っていく。

彼()の有()名()なたとえが、ペーパーナイフです。ペーパーナイフは、「紙()を切()る」という目()的()(本()質())が職()人()の頭()に先()にあって、それから作()られる。モノの世()界()では、本()質()が先()。そして長()いあいだ、人間()も同()じように考()えられてきました。神()様()という「職()人()」が、人間()を何()かの目()的()をもって作()ったのだ、と。

サルトルは、ここをひっくり返()します。神()がいないなら、人間()には、先()回()りして決()められた目()的()なんてない。人間()はまず、ぽんとこの世()界()に存()在()してしまう( 実()存() じつぞん(existence) 本()質()や目()的()に先()立()って、現()に、ここに存()在()してしまっていること。人間()のあり方()の出発()点()。 )。そして、そのあとの選()択()と行()動()で、自()分()が何()者()か(本()質())を、自()分()で作()っていくしかない。「実()存()は本()質()に先()立()つ」。人間()だけが、設計()図()なしで生()まれてくるんです。

自()由()なのに、「刑()」?

設計()図()がない。何()にでもなれる。……解()放()的()な話()のはずが、サルトルはこれを、こう呼()びました。「人間()は 自()由()の刑() じゆうのけい(condamné à être libre) 人間()は自()由()の刑()に処()せられている。神()も運()命()も言()い訳()にできず、全()選()択()の責()任()をひとりで負()う重()荷()としての自()由()。 に処()せられている」。自()由()が、刑()罰()?

なぜか。言()い訳()が、一切()できなくなるからです。神()のせいにも、生()まれつきの性()格()のせいにも、運()命()のせいにもできない。どう生()きるかの正()解()を、誰()も教()えてくれない。すべての選()択()を自()分()でやり、その全()責()任()を、自()分()ひとりで背()負()う。「選()ばない」ことすら、「選()ばないという選()択()」として、あなたの責()任()になる。この逃()げ場()のなさが、「刑()」の意()味()です。

重()さに耐()えかねて、人()は「モノのふり」をする

この重()さに、人()はなかなか耐()えられません。だから、自()分()に嘘()をつく。サルトルはそれを 自()己()欺()瞞() じこぎまん(mauvaise foi) 自()由()の重()さから逃()げて、『自()分()はこういうモノだ』と役()割()に固()まったふりをする、自()分()への嘘()。 と呼()びました。

有()名()なのが、カフェのウェイターの観()察()です。彼()の動()きは、少()し機()敏()すぎ、少()し丁()寧()すぎる。まるで「ウェイターという機()械()」を完璧()に演()じているみたいだ、とサルトルは見()ます。彼()は、「自()分()はウェイターというモノだ」と思()い込()むことで、「本()当()は、別()の生()き方()だって選()べてしまう」という自()由()の不()安()から、逃()げているのだ、と。「自()分()はこういう人間()だから」「うちはこういう家()だから」。……私()たちも、毎()日()やっていませんか。役()割()に固()まって、モノのふりをして、自()由()から目()をそらすこと。

「地()獄()とは他()人()だ」——たぶん、あなたが思()っている意()味()と違()います

サルトルのいちばん有()名()な言葉()が、戯()曲()『出口()なし』のせりふ、「地()獄()とは他()人()のことだ」。「わかる〜、人間()関()係()って地()獄()だよね」という意()味()で使()われがちですが、それ、誤()解()です。

彼()が言()ったのは、もっと深()いことでした。鍵()穴()から、部屋()の中()をこっそり覗()いている場()面()を想()像()してください。覗()いているあいだ、あなたは「見()る側()」、世()界()の主()役()です。ところが、背()後()で足()音()がして、誰()かに見()られた。その瞬()間()、カッと頬()が熱()くなる。あなたは「見()られる側()」に、つまり、誰()かの世()界()の登()場()人()物()・モノに、転()落()したんです。他()者()の まなざし まなざし(le regard) 他()者()の視()線()。向()けられた瞬()間()、私()は『見()る主()体()』から『見()られ、評()価()される客()体()(モノ)』に転()落()する。 は、私()を勝手()に評()価()し、レッテルを貼()り、「そういう人()」に固()定()してしまう。他()人()がいる限()り、私()は自()分()を100%()自()分()では定()義()できない。 この逃()れられない構()造()こそが「地()獄()」。人間()嫌()いのボヤキではなく、他()者()とともに生()きることの、根本()条()件()の話()なんです。

で、これは暗()い思()想()なのか

「意()味()はない。自()由()は刑()。他()人()は地()獄()」。……暗()い! と思()いますよね。当()時()も「虚()無()的()だ」「悲()観()的()だ」とさんざん非()難()されました。でもサルトルは、講()演()で真()っ向()から反()論()します。実()存()主()義()は、むしろ希()望()の哲()学()だ、と。

本()質()が決()まっていない、ということは、未()来()が、完()全()に開()かれているということです。あなたはまだ、何()者()でもない。それは絶()望()ではなく、これから何()者()にでもなれる、という意()味()だ。だから彼()は、その講()演()にこう題()をつけました。「実()存()主()義()はヒューマニズムである」。

5. キーワード

4章()の言葉()は、カードでいつでも引()けます。あと3つ、押()さえておくと深()まる言葉()を。

  • 投()企() とうき(projet) 未()来()の可()能()性()へ向()かって、自()分()を投()げかけること。人間()は現()状()でなく、投()企()によって定()義()される。 (とうき):未()来()の可()能()性()へ向()かって、自()分()を投()げかけること。サルトルにとって人間()は、「今()の自()分()がどうであるか」ではなく、「これから、どうするか」で定()義()されます。履()歴()書()(過()去())ではなく、投()げかける先()(未()来())が、あなた。
  • アンガジュマン あんがじゅまん(engagement) 傍()観()せず、自()分()の意()志()で社()会()や状()況()に身()を投()じ、拘()束()されること。社()会()参()加()。知()識()人()の責()任()の実践()。 :傍()観()者()をやめて、自()分()の意()志()で社()会()や状()況()に飛()び込()み、責()任()を引()き受()けること。「社()会()参()加()」と訳()されます。サルトルは、書()斎()にこもる知()識()人()を批()判()し、自()ら政()治()の渦()中()に身()を投()じました。その光()と影()は、6章()と7章()で見()ます。
  • 即()自()と対()自() そくじとたいじ(en-soi / pour-soi) 即()自()=石()のように自()分()と完()全()に一致()したモノの存()在()。対()自()=人間()の意()識()。常()に自()分()と距()離()があり、未()完()成()で変()わり続()ける。 (そくじとたいじ):モノ(即()自())は、石()ころのように、自()分()自()身()と完()全()に一致()して完()結()している。人間()(対()自())は、常()に自()分()との間()にズレがあって、未()完()成()で、変()わり続()ける。だから人間()は、モノのように「安()定()」できない。それが不()安()の源()であり、同()時()に、自()由()の源()です。

6. 批()判()・限()界()

サルトルには、思()想()と政()治()の両()面()で、強()い批()判()があります。3層()で見()ます。

(a) 前()期()への批()判() — 「意()志()があれば自()由()」は本()当()か

前()期()の実()存()主()義()は、「どんな状()況()でも、人間()は自()由()に選()べる」と説()きました。これに対()して、意()志()の力()を過()大()視()した個()人()主()義()では、という批()判()があります。盟()友()の哲()学()者()メルロ=ポンティらから、こう問()われました。教()育()も受()けられない貧()しい農()民()が、サルトルの言()う「全()人()類()への選()択()と責()任()」を、同()じように担()えるのか、と。

大()事()なのは、この限()界()を、サルトル自()身()が認()めたことです。貧()困()や階()級()という「構()造()」の前()では、個()人()の意()志()だけでは足()りない。この自()己()批()判()が、彼()を後()期()の思()想()(マルクス主()義()との格()闘())へ向()かわせました。

(b) 後()期()の政()治() — 評()価()が激()しく割()れる

後()期()のサルトルは、マルクス主()義()に接近()し、革()命()の側()に立()って発()言()を続()けました。この政()治()的()な足()跡()は、いまも評()価()が真()っ二()つです。

(c) 構()造()主()義()からの批()判() — 「主()体()」は幻()想()か

1960年代()、サルトルの「自()由()な主()体()が歴()史()を作()る」という考()えは、次()の世()代()の「構()造()主()義()」から決定()的()な批()判()を浴()びます。人()類()学()者()レヴィ=ストロースは、人間()は自()由()な主()体()などではなく、言()語()や無()意()識()の「構()造()」に作()られている産()物()にすぎない、と論()じました。フーコーは「人間()の死()」を宣()言()。実()存()主()義()は、思()想()界()の主()役()の座()を明()け渡()しました。

7. つながりと対()比()

サルトルは、誰()と決()裂()し、誰()とつながるのか。

まず、何()をおいても、カミュ。 このサイトのカミュの章()で予()告()した「決()裂()」の相()手()が、サルトルです。

二人()は戦()時()中()、抵()抗()運()動()の中()で結()ばれた親()友()でした。それが1952年()、公()開()の場()で絶交()します。発端()は、カミュの『反()抗()的()人間()』への、サルトルの雑誌()に載()った痛()烈()な書()評()。カミュが編()集()長()サルトル宛()てに抗()議()の公()開()書()簡()を送()ると、サルトルは「親()愛()なるカミュよ」と呼()びかけながら、返()答()を公()表()しました。君()の人()格()は蜃()気()楼()になりつつある。1944年()、それは未()来()だった。1952年()、それは過()去()だ、という趣()旨()の、冷()酷()な返()答()でした。

争()点()は、歴()史()のための暴()力()でした。

そして、この話()には後()日()談()があります。二人()は生()涯()、和()解()しませんでした。でも1960年()、カミュが自()動()車()事()故()で急()死()した3日()後()、サルトルは、追()悼()文()を書()いたんです。カミュは「モラリストの系()譜()の、現()代()の後()継()者()」であり、その作()品()は「頑()固()なヒューマニズム」だった、と。絶交()しても、敬()意()は消()えていなかった。決()裂()と追()悼()、その両()方()が、二人()の関()係()の全()体()です。

源()流()は、フッサールとハイデガー(“意()識()にどう現()れるか”を問()う現()象()学()と、“存()在()とは何()か”を問()う存()在()論())。面()白()いことに、ハイデガー本()人()は後()に「私()の哲()学()はサルトルの実()存()主()義()とは違()う」と、はっきり拒()否()しています。

ボーヴォワールの『第()二()の性()』(「人()は女()に生()まれるのではない、女()になるのだ」)は、「実()存()は本()質()に先()立()つ」を女()性()の状()況()に適()用()したもの。フェミニズムの理()論()的()土()台()です。

そして、このサイトの人()物()たちと。ニーチェの「神()の死()のあとは、自()分()で価()値()を創()る」を受()け継()ぎつつ、孤()高()の超()人()ではなく万()人()の自()由()と社()会()参()加()へ広()げた。フランクルとは正()反()対()の好()対()照()。フランクルは「意()味()は、どんな状()況()にも見出()されるのを待()っている」、サルトルは「意()味()は、無()から自()分()で創()る」。ブッダとは、「固()定()した自()分()などない」という出発()点()がそっくりなのに、ブッダは解()脱()と静()寂()へ、サルトルは社()会()への拘()束()と闘()争()へ。同()じ地()点()から、逆()方()向()に歩()いた二人()です。 → カミュ・ニーチェ・フランクル・ブッダ につながります。

8. いまの自()分()に、どう効()くか

「自()分()らしく生()きよう」「人()生()は、自()分()で選()べる」。広()告()にも自()己()啓()発()にもあふれるこの言葉()の元()栓()を開()けたのが、サルトルです。まず、追()い風()の面()から。「生()まれつき決()まった本()質()などない」という宣()言()は、伝()統()・宗()教()・身()分()・性()別()、あらゆる「こう生()きるべき」の押()しつけから、人()を解()放()しました。ボーヴォワールのフェミニズムをはじめ、抑()圧()されてきた人々()が「私()は、社()会()が貼()ったレッテルではない」と立()ち上()がるときの、哲()学()的()な根()拠()になった。同()調()圧()力()に息()が詰()まりそうな人()にとって、「あなたの人()生()の主()導()権()は、あなたにある」というメッセージは、いまも強()力()です。

でも、落()とし穴()もある。「すべては自()分()の選()択()」が自()己()啓()発()ふうに薄()められると、貧()困()や差()別()という構()造()を無()視()した、冷()たい自()己()責()任()論()に化()けます(スマイルズで見()たのと、同()じ横()すべりです)。「地()獄()とは他()人()」は、俗()流()の愚()痴()として消()費()される。そして、社()会()参()加()(アンガジュマン)が教()条()的()なイデオロギーに暴()走()する危()険()を、サルトル自()身()の政()治()的()な誤()りが、身()をもって実証()してしまいました。

さて。サルトルは、このサイトが言()ってきたことの、いちばん過()激()な肯()定()者()です。だからここで一()度()、この人()とサイト全()体()との関()わりを、言()わせてください。

このサイトは、ずっと「小()手()先()の枝()葉()ではなく、世()界()観()(根()っこ)を変()えろ」と言()ってきました。サルトルは、その営()みの、いちばん過()激()な肯()定()者()です。彼()に言()わせれば、そもそも、あなたの根()っこは、最()初()から決()まってなどいない。あなたが選()んだものが、根()になる。 ニーチェの「創()れ」も、ブッダの「手放()せ」も、ソクラテスの「問()え」も、この次()に出()会()うフランクルの「応()えよ」も。どれを選()ぶかは、誰()も決()めてくれません。それが、あなたの「自()由()の刑()」です。

ただし、サルトル自()身()の人()生()が、最()後()の注()意()書()きになっています。選()ぶ自()由()は、間()違()いうる。彼()の政()治()的()誤()りが、そうだったように。だから、一()度()選()んだら終()わり、ではない。選()び直()し続()けるしかない。

それでも、締()めはこの一言()でいいと思()うんです。あなたはまだ、何()者()でもない。それは、これから何()者()にでもなれる、ということだ。

9. もっと知()る

サルトルは、入口()を間()違()えなければ、ちゃんと読()めます。

読()む順()の目()安()

  1. まず『実()存()主()義()とは何()か』(人()文()書()院())。1945年()のあの講()演()の記()録()です。本()人()による、最()も平()易()で情()熱()的()な実()存()主()義()の解()説()。最()初()の1冊()は、必()ずこれ。
  2. 次()に、小()説()『嘔()吐()』。存()在()の無()意()味()さに文字()どおり「吐()き気()」を催()す主()人()公()の物語()。鈴()木()道()彦()の新()訳()が読()みやすいです。
  3. 主()著()『存()在()と無()』は、正()直()、極()めて難()解()です。覚()悟()のある人()だけ。先()に海老坂武()のNHK「100分()de名()著()」などの解()説()書()を読()むことを、強()くおすすめします。

10. まだ決着()していないこと(両()論()ボックス)


このサイトは、確()定()した史()実()と、解()釈()が割()れる論()点()を分()けて記()述()しています。崇()拝()も断()罪()もせず、出典()に当()たれる形()を心()がけました。サルトルについては特()に、前()期()と後()期()の思()想()、哲()学()と政()治()的()行()動()、そしてカミュとの決()裂()と追()悼()。その両()面()を、どちらか片()方()だけの絵()にしないよう努()めています。

もっと知()る — ブックガイド

入()門()(まずここから)

  • NHK「100分()de名()著()」サルトル 実()存()主()義()とは何()か(海老坂武()) 研()究()の第()一人()者()による超()入()門()。原()典()の前()に。最()も易()しい。
  • 存()在()と無()(松浪()信三郎() 訳()・ちくま学()芸()文()庫()) 主()著()。極()めて難()解()・上()級()者()向()け。解()説()書()を先()に。

原()典()(挑()むなら)

  • 実()存()主()義()とは何()か(伊吹()武()彦()ほか訳()・人()文()書()院()) 1945年()講()演()の記()録()。最()も平()易()で情()熱()的()な入口()。最()初()の1冊()はこれ。
  • 嘔()吐()(鈴()木()道()彦() 訳()・人()文()書()院()・新()訳()2010) 小()説()。存()在()の無()意()味()さに『吐()き気()』を催()す主()人()公()。新()訳()が読()みやすい。中()級()。