1. 一言( ひとこと ) で
過( か ) 去( こ ) が私( わたし ) を決( き ) めるのではない。私( わたし ) が「今( いま ) の目( もく ) 的( てき ) 」のために、過( か ) 去( こ ) を使( つか ) っている。
アルフレッド・アドラー(1870–1937)は、こう考( かんが ) えたオーストリアの精( せい ) 神( しん ) 科( か ) 医( い ) です。フロイト、ユングと並( なら ) ぶ、心( しん ) 理( り ) 学( がく ) の祖( そ ) の一人( ひとり ) です。
先( さき ) に、読( よ ) むときの構( かま ) えをひとつだけ。日本( にっぽん ) でアドラーといえば、大( だい ) ベストセラー『嫌( きら ) われる勇( ゆう ) 気( き ) 』ですよね。あの本( ほん ) でアドラーを知( し ) った人( ひと ) が、ほとんどだと思( おも ) います。でも、大( だい ) 事( じ ) なことを言( い ) います。 あの本( ほん ) は、アドラー本( ほん ) 人( にん ) が書( か ) いた本( ほん ) ではありません。 岸( きし ) 見( み ) 一郎( いちろう ) さんという哲( てつ ) 学( がく ) 者( しゃ ) による、“解( かい ) 釈( しゃく ) 本( ほん ) ”です。だからこのページでは、「アドラー本( ほん ) 人( にん ) の思( し ) 想( そう ) 」と「『嫌( きら ) われる勇( ゆう ) 気( き ) 』が描( えが ) くアドラー像( ぞう ) 」を、注( ちゅう ) 意( い ) 深( ぶか ) く分( わ ) けて見( み ) ていきます。そして、崇( あが ) めも、こき下( お ) ろしもしません。
2. いそがしい人( ひと ) へ
3つだけ、先( さき ) に。
核( かく ) 心( しん ) :過( か ) 去( こ ) のトラウマが今( いま ) の自( じ ) 分( ぶん ) を決( き ) めるのではない。「今( いま ) 、こうしたい」という目( もく ) 的( てき ) のために、過( か ) 去( こ ) に意( い ) 味( み ) づけをしている(目( もく ) 的( てき ) 論( ろん ) )。だから、目( もく ) 的( てき ) を変( か ) えれば、生( い ) き方( かた ) は変( か ) えられる。
なぜ重( じゅう ) 要( よう ) :人( ひと ) を「過( か ) 去( こ ) の囚( しゅう ) 人( じん ) 」から「未( み ) 来( らい ) の設計( せっけい ) 者( しゃ ) 」へ解( かい ) 放( ほう ) した。スマイルズ・ドゥエックと同( おな ) じ「自( じ ) 分( ぶん ) で人( じん ) 生( せい ) を選( えら ) べる」という系( けい ) 譜( ふ ) です。
よくある誤( ご ) 解( かい ) :有( ゆう ) 名( めい ) な「トラウマは存( そん ) 在( ざい ) しない」「課( か ) 題( だい ) の分( ぶん ) 離( り ) 」「嫌( きら ) われる勇( ゆう ) 気( き ) 」。 この3つとも、実( じつ ) はアドラー本( ほん ) 人( にん ) の言葉( ことば ) ではありません (本( ほん ) 文( ぶん ) で解( と ) きます)。
3. どんな人( ひと ) ?
アドラーの理( り ) 論( ろん ) は、彼( かれ ) 自( じ ) 身( しん ) の「弱( よわ ) さ」から生( う ) まれました。
1870年( ねん ) 、ウィーンに生( う ) まれた彼( かれ ) は、とても病( びょう ) 弱( じゃく ) な子( こ ) でした。くる病( やまい ) で4歳( さい ) まで歩( ある ) けず、5歳( さい ) のときには肺( はい ) 炎( えん ) で死( し ) にかけている。弟( おとうと ) を亡( な ) くす経( けい ) 験( けん ) もした。この「自( じ ) 分( ぶん ) は弱( よわ ) い」という痛( つう ) 切( せつ ) な感( かん ) 覚( かく ) が、後( あと ) の彼( かれ ) の中( ちゅう ) 心( しん ) 概( がい ) 念( ねん ) (「劣等( れっとう ) 感( かん ) 」と、それを乗( の ) り越( こ ) えようとする力( ちから ) の理( り ) 論( ろん ) )の源( みなもと ) になります。
1902年( ねん ) 、彼( かれ ) はフロイトの研( けん ) 究( きゅう ) 会( かい ) に加( くわ ) わります。よく「フロイトの弟( で ) 子( し ) 」と誤( ご ) 解( かい ) されますが、実際( じっさい ) は 対( たい ) 等( とう ) な同( どう ) 僚( りょう ) で、後( あと ) に学会長( がっかいちょう ) も務( つと ) めました。でも、二人( ふたり ) の考( かんが ) えは、決定( けってい ) 的( てき ) に食( く ) い違( ちが ) っていく。フロイトは、人( ひと ) を「過( か ) 去( こ ) の原( げん ) 因( いん ) 」と「性( せい ) の欲( よく ) 動( どう ) 」で説( せつ ) 明( めい ) した。アドラーは、人( ひと ) を「 未( み ) 来( らい ) の目( もく ) 的( てき ) 」と「社( しゃ ) 会( かい ) 的( てき ) なつながり」で捉( とら ) えた。この対( たい ) 立( りつ ) は埋( う ) まらず、1911年( ねん ) に決( けつ ) 別( べつ ) 。アドラーは独( どく ) 自( じ ) の「個( こ ) 人( じん ) 心( しん ) 理( り ) 学( がく ) 」を打( う ) ち立( た ) てます。
第( だい ) 一次( いちじ ) 大( たい ) 戦( せん ) に軍( ぐん ) 医( い ) として従( じゅう ) 軍( ぐん ) し、戦( せん ) 争( そう ) の惨( さん ) 禍( か ) を目( め ) の当( あ ) たりにした彼( かれ ) は、「人( ひと ) は、他( た ) 者( しゃ ) とつながり、貢( こう ) 献( けん ) してこそ幸( こう ) 福( ふく ) になれる」という考( かんが ) え(共( きょう ) 同( どう ) 体( たい ) 感( かん ) 覚( かく ) )を深( ふか ) めていきます。戦( せん ) 後( ご ) は、ウィーンに児( じ ) 童( どう ) 相( そう ) 談( だん ) 所( しょ ) を作( つく ) り、教( きょう ) 師( し ) や親( おや ) への教( きょう ) 育( いく ) に力( ちから ) を注( そそ ) いだ。難( むずか ) しい理( り ) 論( ろん ) を、普( ふ ) 通( つう ) の人々( ひとびと ) の役( やく ) に立( た ) つ形( かたち ) で届( とど ) けようとした。心( しん ) 理( り ) 学( がく ) を、庶( しょ ) 民( みん ) に開( ひら ) いた人( ひと ) でした。ユダヤ系( けい ) だったため、ファシズムの台( たい ) 頭( とう ) で活( かつ ) 動( どう ) が難( むずか ) しくなり、1932年( ねん ) に渡( と ) 米( べい ) 。1937年( ねん ) 、講( こう ) 演( えん ) 旅( りょ ) 行( こう ) の途( と ) 中( ちゅう ) 、スコットランドで亡( な ) くなりました。
4. 中( ちゅう ) 心( しん ) となる考( かんが ) え
この章( しょう ) で、アドラーが引( ひ ) っくり返( かえ ) した「原( げん ) 因( いん ) と目( もく ) 的( てき ) 」
アドラーの中( ちゅう ) 心( しん ) にあるのは、たった一( ひと ) つの発想( はっそう ) の転( てん ) 換( かん ) です。 あなたを縛( しば ) っているのは「過( か ) 去( こ ) 」ではなく、あなたの「今( いま ) の目( もく ) 的( てき ) 」だ。
この人( ひと ) が押( お ) した、前( ぜん ) 提( てい ) のスイッチ
登( とう ) 場( じょう ) 前( まえ ) の常( じょう ) 識( しき ) 過( か ) 去( こ ) のトラウマが、 今( いま ) の私( わたし ) を決( き ) めている(原( げん ) 因( いん ) 論( ろん ) )。
↻ 登( とう ) 場( じょう ) 前( まえ ) の常( じょう ) 識( しき ) に戻( もど ) す スイッチを切( き ) る → 書( か ) き換( か ) える アドラー以( い ) 後( ご ) 私( わたし ) は『今( いま ) の目( もく ) 的( てき ) 』のために、 過( か ) 去( こ ) を使( つか ) っている(目( もく ) 的( てき ) 論( ろん ) )。
たとえば「昔( むかし ) いじめられた。だから、外( そと ) に出( だ ) られない」。ふつう、こう考( かんが ) えますよね。過( か ) 去( こ ) の原( げん ) 因( いん ) が、今( いま ) の結果( けっか ) を決( き ) めている、と。これを 原( げん ) 因( いん ) 論( ろん ) 原( げん ) 因( いん ) 論( ろん ) げんいんろん(Kausalität) 行( こう ) 動( どう ) は過( か ) 去( こ ) の原( げん ) 因( いん ) によって決( き ) まる、というフロイト的( てき ) な立場( たちば ) 。アドラーはこれを逆( ぎゃく ) 転( てん ) させ、目( もく ) 的( てき ) 論( ろん ) を唱( とな ) えた。 といいます。アドラーは、これを引( ひ ) っくり返( かえ ) しました。順( じゅん ) 番( ばん ) が逆( ぎゃく ) だ、と言( い ) うんです。「 外( そと ) に出( で ) て、また傷( きず ) つきたくない」。そういう”今( いま ) の目( もく ) 的( てき ) ”が先( さき ) にあって、その目( もく ) 的( てき ) をかなえる材( ざい ) 料( りょう ) として、過( か ) 去( こ ) のいじめの記( き ) 憶( おく ) を持( も ) ち出( だ ) している。これを 目( もく ) 的( てき ) 論( ろん ) 目( もく ) 的( てき ) 論( ろん ) もくてきろん(Finalität) 行( こう ) 動( どう ) は過( か ) 去( こ ) の原( げん ) 因( いん ) でなく『今( いま ) の目( もく ) 的( てき ) 』が決( き ) める、という立場( たちば ) 。フロイトの原( げん ) 因( いん ) 論( ろん ) の逆( ぎゃく ) 。 といいます。
冷( つめ ) たく聞( き ) こえるかもしれません。でも、ここには強( きょう ) 烈( れつ ) な希( き ) 望( ぼう ) があります。過( か ) 去( こ ) は、変( か ) えられない。でも、過( か ) 去( こ ) に「どんな意( い ) 味( み ) を与( あた ) えるか」は、今( いま ) の自( じ ) 分( ぶん ) が決( き ) めている。だとしたら、今( いま ) の目( もく ) 的( てき ) を切( き ) り替( か ) えさえすれば、人( ひと ) は、いつでも変( か ) われる。
いちばん大( だい ) 事( じ ) な注( ちゅう ) 意( い ) ——有( ゆう ) 名( めい ) な3つの言葉( ことば ) は、本( ほん ) 人( にん ) のじゃない
ここで、大( だい ) 事( じ ) なことを、正( しょう ) 直( じき ) に言( い ) っておきます。あなたがアドラーと聞( き ) いて思( おも ) い浮( う ) かべる言葉( ことば ) 。たぶん、この3つですよね。「 トラウマは存( そん ) 在( ざい ) しない 」「課( か ) 題( だい ) の分( ぶん ) 離( り ) 」「嫌( きら ) われる勇( ゆう ) 気( き ) 」。
実( じつ ) は、この3つとも、アドラー本( ほん ) 人( にん ) の言葉( ことば ) ではありません。
これらは、日本( にっぽん ) で大( だい ) ベストセラーになった『嫌( きら ) われる勇( ゆう ) 気( き ) 』(岸( きし ) 見( み ) 一郎( いちろう ) ・古賀史健( こがふみたけ ) )が広( ひろ ) めたものです。この本( ほん ) は素( す ) 晴( ば ) らしい入口( いりぐち ) ですが、 アドラー本( ほん ) 人( にん ) が書( か ) いた本( ほん ) ではなく、“解( かい ) 釈( しゃく ) 本( ほん ) ” なんです。ひとつずつ、見( み ) てみましょう。
「トラウマは存( そん ) 在( ざい ) しない」 。これは本( ほん ) の見( み ) 出( だ ) しで、著( ちょ ) 者( しゃ ) 自( じ ) 身( しん ) が「もちろん、トラウマそのものは存( そん ) 在( ざい ) します」と断( ことわ ) っています。アドラーが本( ほん ) 当( とう ) に言( い ) ったのは「トラウマは無( な ) い」ではなく、「トラウマが、今( いま ) のあなたを”決定( けってい ) ”するわけではない」ということ。過( か ) 去( こ ) の存( そん ) 在( ざい ) を消( け ) したのではなく、過( か ) 去( こ ) の”支( し ) 配( はい ) 力( りょく ) ”を否( ひ ) 定( てい ) したんです。
「課( か ) 題( だい ) の分( ぶん ) 離( り ) 」 。これはアドラーの用( よう ) 語( ご ) ですらありません。日本( にっぽん ) の野田( のだ ) 俊( しゅん ) 作( さく ) という精( せい ) 神( しん ) 科( か ) 医( い ) (初( しょ ) 代( だい ) 日本( にっぽん ) アドラー心( しん ) 理( り ) 学会( がっかい ) 会( かい ) 長( ちょう ) )が広( ひろ ) めた言葉( ことば ) で、本( ほん ) 人( にん ) も、アドラーはどこにも書( か ) いていない、あれは自( じ ) 分( ぶん ) が言( い ) いだしたものだ、と認( みと ) めています。
「嫌( きら ) われる勇( ゆう ) 気( き ) 」 。これもアドラーの言葉( ことば ) ではなく、本( ほん ) のためのキャッチコピーです。
なぜ、こんな細( こま ) かいことを言( い ) うのか。次( つぎ ) で分( わ ) かります。
抜( ぬ ) け落( お ) ちた、いちばん大( だい ) 事( じ ) なもの——共( きょう ) 同( どう ) 体( たい ) 感( かん ) 覚( かく )
『嫌( きら ) われる勇( ゆう ) 気( き ) 』は、「課( か ) 題( だい ) の分( ぶん ) 離( り ) 」、つまり「他( た ) 人( にん ) の課( か ) 題( だい ) に踏( ふ ) み込( こ ) むな、あなたはあなたの人( じん ) 生( せい ) を生( い ) きろ」という部( ぶ ) 分( ぶん ) が、大( おお ) きく響( ひび ) きました。同( どう ) 調( ちょう ) 圧( あつ ) 力( りょく ) に疲( つか ) れた人( ひと ) にとって、これは救( すく ) いでした。
でも、アドラーが本( ほん ) 当( とう ) に一( いち ) 番( ばん ) 大( だい ) 事( じ ) にしたのは、その先( さき ) です。 共( きょう ) 同( どう ) 体( たい ) 感( かん ) 覚( かく ) 共( きょう ) 同( どう ) 体( たい ) 感( かん ) 覚( かく ) きょうどうたいかんかく(Gemeinschaftsgefühl) 他( た ) 者( しゃ ) を仲( なか ) 間( ま ) と見( み ) なし、社( しゃ ) 会( かい ) に貢( こう ) 献( けん ) しようとする感( かん ) 覚( かく ) 。アドラー思( し ) 想( そう ) の到( とう ) 達( たつ ) 点( てん ) 。同( どう ) 調( ちょう ) 圧( あつ ) 力( りょく ) とは正( せい ) 反( はん ) 対( たい ) 。 。他( た ) 者( しゃ ) を「敵( てき ) 」ではなく「仲( なか ) 間( ま ) 」と見( み ) て、 その仲( なか ) 間( ま ) に貢( こう ) 献( けん ) すること にこそ、幸( こう ) 福( ふく ) がある、という考( かんが ) え。「課( か ) 題( だい ) の分( ぶん ) 離( り ) 」は、そこへ至( いた ) るための入( い ) り口( くち ) にすぎなかった。ところがブームでは、入( い ) り口( くち ) の「切( き ) り離( はな ) し」ばかりが強( きょう ) 調( ちょう ) され、ゴールの「つながり・貢( こう ) 献( けん ) 」が、すっぽり抜( ぬ ) け落( お ) ちてしまった。
面( おも ) 白( しろ ) い証( しょう ) 拠( こ ) があります。「課( か ) 題( だい ) の分( ぶん ) 離( り ) 」を広( ひろ ) めた当( あ ) の野田( のだ ) 俊( しゅん ) 作( さく ) その人( ひと ) が、『嫌( きら ) われる勇( ゆう ) 気( き ) 』を「“課( か ) 題( だい ) の分( ぶん ) 離( り ) ”ばかり強( きょう ) 調( ちょう ) して、肝心( かんじん ) の”協( きょう ) 力( りょく ) ”が抜( ぬ ) けている」と、実( じつ ) は批( ひ ) 判( はん ) していたんです。看( かん ) 板( ばん ) になった言葉( ことば ) を作( つく ) った本( ほん ) 人( にん ) が、その使( つか ) われ方( かた ) に首( くび ) をかしげている。ここ、覚( おぼ ) えておいてください。
劣等( れっとう ) 感( かん ) は、悪( わる ) 者( もの ) じゃない
もう一( ひと ) つ、誤( ご ) 解( かい ) を解( と ) いておきます。 劣等( れっとう ) 感( かん ) 劣等( れっとう ) 感( かん ) れっとうかん(Minderwertigkeitsgefühl) 理( り ) 想( そう ) の自( じ ) 分( ぶん ) に比( くら ) べ『劣( おと ) る』と感( かん ) じる感( かん ) 覚( かく ) 。誰( だれ ) もが持( も ) つ正( せい ) 常( じょう ) なもので、成( せい ) 長( ちょう ) のバネ。悪( あく ) ではない。 。これ、悪( わる ) いものだと思( おも ) われていますよね。でもアドラーにとって、劣等( れっとう ) 感( かん ) は 成( せい ) 長( ちょう ) のバネです。「今( いま ) の自( じ ) 分( ぶん ) じゃダメだ、もっと良( よ ) くなりたい」。この感( かん ) 覚( かく ) があるから、人( ひと ) は努( ど ) 力( りょく ) できる。問( もん ) 題( だい ) なのは、劣等( れっとう ) 感( かん ) を「言( い ) い訳( やく ) 」にして、挑( ちょう ) 戦( せん ) から逃( に ) げること( 劣等( れっとう ) コンプレックス 劣等( れっとう ) コンプレックス れっとうこんぷれっくす 劣等( れっとう ) 感( かん ) を『言( い ) い訳( やく ) 』にして課( か ) 題( だい ) から逃( に ) げる態( たい ) 度( ど ) (例( れい ) :学( がく ) 歴( れき ) が低( ひく ) いから無( む ) 駄( だ ) だ)。劣等( れっとう ) 感( かん ) とは区( く ) 別( べつ ) される。 )のほう。劣等( れっとう ) 感( かん ) そのものは、あなたの敵( てき ) ではありません。
5. キーワード
4章( しょう ) の言葉( ことば ) は、カードでいつでも引( ひ ) けます。あと2つ、知( し ) っておくと深( ふか ) まる言葉( ことば ) を。
優( ゆう ) 越( えつ ) 性( せい ) の追( つい ) 求( きゅう ) 優( ゆう ) 越( えつ ) 性( せい ) の追( つい ) 求( きゅう ) ゆうえつせいのついきゅう(Streben nach Überlegenheit) より良( よ ) くなろうとする普( ふ ) 遍( へん ) 的( てき ) な欲求( よっきゅう ) 。他( た ) 人( にん ) に勝( か ) つことではなく、理( り ) 想( そう ) の自( じ ) 分( ぶん ) へ近( ちか ) づくこと。 (ゆうえつせいのついきゅう):もっと良( よ ) くなりたい、という誰( だれ ) もが持( も ) つ欲求( よっきゅう ) のこと。ここで大( だい ) 事( じ ) なのは、 これは「他( た ) 人( にん ) に勝( か ) つこと」ではない ということ。他( た ) 人( にん ) を蹴( け ) 落( お ) として上( うえ ) に立( た ) つのは、アドラーに言( い ) わせれば、ゆがんだ形( かたち ) 。本( ほん ) 来( らい ) は、昨日( きのう ) の自( じ ) 分( ぶん ) より前( まえ ) へ、“理( り ) 想( そう ) の自( じ ) 分( ぶん ) ”へ近( ちか ) づこうとする、健( すこ ) やかな力( ちから ) です。他( た ) 人( にん ) との競( きょう ) 争( そう ) (縦( たて ) の関( かん ) 係( けい ) )ではなく、自( じ ) 分( ぶん ) の成( せい ) 長( ちょう ) (横( よこ ) の関( かん ) 係( けい ) )。
ライフスタイル ライフスタイル らいふすたいる(Lebensstil) 人( じん ) 生( せい ) ・自( じ ) 己( こ ) ・世( せ ) 界( かい ) への意( い ) 味( み ) づけの一貫( いっかん ) した型( かた ) (いわゆる性( せい ) 格( かく ) )。幼( よう ) 少( しょう ) 期( き ) に自( じ ) 分( ぶん ) で選( えら ) び、選( えら ) び直( なお ) せる。 (らいふすたいる):いわゆる「性( せい ) 格( かく ) 」のこと。でもアドラーは、性( せい ) 格( かく ) を「生( う ) まれつきの宿( しゅく ) 命( めい ) 」とは考( かんが ) えませんでした。それは幼( おさな ) い頃( ころ ) に、自( じ ) 分( ぶん ) で選( えら ) び取( と ) った、世( せ ) 界( かい ) への向( む ) き合( あ ) い方( かた ) の”型( かた ) ”だ、と。だから、 選( えら ) び直( なお ) せる。「自( じ ) 分( ぶん ) はこういう性( せい ) 格( かく ) だから」は、変( か ) えられない言( い ) い訳( やく ) ではなく、今日( きょう ) から選( えら ) び直( なお ) せるもの。ここにも、彼( かれ ) の希( き ) 望( ぼう ) があります。
(※ 目( もく ) 的( てき ) 論( ろん ) ・劣等( れっとう ) 感( かん ) ・劣等( れっとう ) コンプレックス・共( きょう ) 同( どう ) 体( たい ) 感( かん ) 覚( かく ) ・課( か ) 題( だい ) の分( ぶん ) 離( り ) は、本( ほん ) 文( ぶん ) 中( ちゅう ) のカードで、いつでも引( ひ ) けます。)
6. 批( ひ ) 判( はん ) ・限( げん ) 界( かい )
アドラーには、強( つよ ) い批( ひ ) 判( はん ) もあります。3層( そう ) で、両( りょう ) 方( ほう ) を見( み ) ます。
(a) 「トラウマは存( そん ) 在( ざい ) しない」への、脳( のう ) 科( か ) 学( がく ) からの批( ひ ) 判( はん )
現( げん ) 代( だい ) のトラウマ研( けん ) 究( きゅう ) は、深( しん ) 刻( こく ) な心( こころ ) の傷( きず ) (PTSDなど)が、脳( のう ) や神( しん ) 経( けい ) に生( せい ) 理( り ) 的( てき ) な変( へん ) 化( か ) を残( のこ ) すことを示( しめ ) しています。だから「引( ひ ) きこもるのは本( ほん ) 人( にん ) の目( もく ) 的( てき ) だ」と目( もく ) 的( てき ) 論( ろん ) を無( む ) 理( り ) に当( あ ) てはめると、本( ほん ) 当( とう ) に苦( くる ) しんでいる人( ひと ) に「治( なお ) らないのは、あなたの勇( ゆう ) 気( き ) が足( た ) りないからだ」と責( せ ) める、二次( にじ ) 加( か ) 害( がい ) になりかねない。
(b) 『嫌( きら ) われる勇( ゆう ) 気( き ) 』ブームの、功( こう ) と罪( つみ )
功( こう ) は大( おお ) きい。ほぼ無( む ) 名( めい ) だったアドラーを、日本中( にほんじゅう ) に広( ひろ ) めた(2024年( ねん ) 時( じ ) 点( てん ) で国( こく ) 内( ない ) 300万( まん ) 部( ぶ ) 、世( せ ) 界( かい ) 1180万( まん ) 部( ぶ ) 超( ちょう ) )。同( どう ) 調( ちょう ) 圧( あつ ) 力( りょく ) に苦( くる ) しむ人( ひと ) に、実践( じっせん ) 的( てき ) な救( すく ) いを届( とど ) けた。
罪( つみ ) もある。何( なん ) 度( ど ) も言( い ) うように、「課( か ) 題( だい ) の分( ぶん ) 離( り ) 」ばかりが独( ひと ) り歩( ある ) きし、到( とう ) 達( たつ ) 点( てん ) の「共( きょう ) 同( どう ) 体( たい ) 感( かん ) 覚( かく ) (他( た ) 者( しゃ ) への貢( こう ) 献( けん ) )」が抜( ぬ ) け落( お ) ちた。「すべては勇( ゆう ) 気( き ) の問( もん ) 題( だい ) 」「他( た ) 人( にん ) の課( か ) 題( だい ) は関( かん ) 係( けい ) ない」が、冷( つめ ) たい自( じ ) 己( こ ) 責( せき ) 任( にん ) 論( ろん ) や、人間( にんげん ) 関( かん ) 係( けい ) の切( き ) り捨( す ) てに横( よこ ) すべりする。実際( じっさい ) 、2017年( ねん ) にこの本( ほん ) がドラマ化( か ) されたとき、日本( にっぽん ) アドラー心( しん ) 理( り ) 学会( がっかい ) が、その内( ない ) 容( よう ) はアドラー心( しん ) 理( り ) 学( がく ) の一般( いっぱん ) 的( てき ) な理( り ) 解( かい ) とかなり異( こと ) なる、として公( こう ) 式( しき ) に抗( こう ) 議( ぎ ) しています。
(c) そもそも「科( か ) 学( がく ) 」なのか
科( か ) 学( がく ) 哲( てつ ) 学( がく ) 者( しゃ ) のカール・ポパーは、アドラーの理( り ) 論( ろん ) を「反( はん ) 証( しょう ) 不( ふ ) 可( か ) 能( のう ) 」(つまり、人( ひと ) がどんな行( こう ) 動( どう ) をとっても後( あと ) 付( づ ) けで説( せつ ) 明( めい ) できてしまうから、科( か ) 学( がく ) として検( けん ) 証( しょう ) できない)として、疑( ぎ ) 似( じ ) 科( か ) 学( がく ) の代( だい ) 表( ひょう ) 例( れい ) に挙( あ ) げました。有( ゆう ) 名( めい ) な逸( いつ ) 話( わ ) があります。ポパーがある少( しょう ) 年( ねん ) の事( じ ) 例( れい ) を報( ほう ) 告( こく ) すると、アドラーは本( ほん ) 人( にん ) を診( み ) もせずに、劣等( れっとう ) 感( かん ) の理( り ) 論( ろん ) で即( そく ) 座( ざ ) に説( せつ ) 明( めい ) した。「なぜ分( わ ) かるのか」と問( と ) うと、「私( わたし ) の千( せん ) 倍( ばい ) の経( けい ) 験( けん ) から」と答( こた ) えたそうです。
7. つながりと対( たい ) 比( ひ )
アドラーは、誰( だれ ) と決( けつ ) 別( べつ ) し、誰( だれ ) とつながるのか。
決( けつ ) 別( べつ ) したのは、フロイトとユング。 深( しん ) 層( そう ) 心( しん ) 理( り ) 学( がく ) の3人( さんにん ) の祖( そ ) ですが、向( む ) きが違( ちが ) う。フロイト=過( か ) 去( こ ) の原( げん ) 因( いん ) 、ユング=集( しゅう ) 合( ごう ) 的( てき ) 無( む ) 意( い ) 識( しき ) 、アドラー=未( み ) 来( らい ) の目( もく ) 的( てき ) と社( しゃ ) 会( かい ) 的( てき ) つながり。アドラーは、その「最( さい ) 初( しょ ) の反( はん ) 逆( ぎゃく ) 者( しゃ ) 」でした。
そして、意( い ) 外( がい ) な近( ちか ) さがあるのが、 フランクル 。 これは、このサイトの中( なか ) でつながる話( はなし ) です。 あの『夜( よる ) と霧( きり ) 』のフランクルは、若( わか ) い頃( ころ ) 、アドラーの研( けん ) 究( きゅう ) 会( かい ) に所( しょ ) 属( ぞく ) していました。 でも「意( い ) 味( み ) 」を中( ちゅう ) 心( しん ) に据( す ) えたことで、1927年( ねん ) ごろに除( じょ ) 名( めい ) され、独( どく ) 自( じ ) のロゴセラピーへ進( すす ) みます。並( なら ) べると、きれいに整( せい ) 理( り ) できます。「快( かい ) への意( い ) 志( し ) 」(フロイト)、「権( けん ) 力( りょく ) への意( い ) 志( し ) 」(アドラー)、「 意( い ) 味( み ) への意( い ) 志( し ) 」(フランクル)。この3人( さんにん ) は、ウィーンから出( だ ) た心( しん ) 理( り ) 学( がく ) の、三( みっ ) つの流( なが ) れなんです。
同( おな ) じ束( たば ) のスマイルズ ・ドゥエック とは、「過( か ) 去( こ ) や環( かん ) 境( きょう ) を言( い ) い訳( やく ) にせず、自( じ ) 分( ぶん ) で人( じん ) 生( せい ) を選( えら ) ぶ」という自( じ ) 己( こ ) 決定( けってい ) の系( けい ) 譜( ふ ) でつながります。ドゥエックの「人( ひと ) は変( か ) われる」と、アドラーの「目( もく ) 的( てき ) を変( か ) えれば変( か ) われる」は、同( おな ) じ方( ほう ) 向( こう ) を向( む ) いています。
そしてニーチェ の「力( ちから ) への意( い ) 志( し ) 」が、アドラーの「優( ゆう ) 越( えつ ) 性( せい ) の追( つい ) 求( きゅう ) 」に影( えい ) 響( きょう ) を与( あた ) えている。ただしニーチェが孤( こ ) 高( こう ) の超( ちょう ) 人( じん ) へ向( む ) かうのに対( たい ) し、アドラーは、あくまで共( きょう ) 同( どう ) 体( たい ) との調( ちょう ) 和( わ ) を手放( てばな ) しませんでした。
→ このサイトでは、 フランクル ・スマイルズ ・ドゥエック ・ニーチェ につながります。
8. いまの自( じ ) 分( ぶん ) に、どう効( き ) くか
アドラー(というより『嫌( きら ) われる勇( ゆう ) 気( き ) 』)は、いまも効( き ) きます。これが 功( こう ) 。「空( くう ) 気( き ) を読( よ ) む」「他( た ) 人( にん ) の顔( かお ) 色( いろ ) をうかがう」。そんな同( どう ) 調( ちょう ) 圧( あつ ) 力( りょく ) に疲( つか ) れた人( ひと ) にとって、「承( しょう ) 認( にん ) 欲求( よっきゅう ) から自( じ ) 由( ゆう ) になれ、自( じ ) 分( ぶん ) の人( じん ) 生( せい ) を選( えら ) べ」というメッセージは、強( きょう ) 力( りょく ) な解( げ ) 毒( どく ) 剤( ざい ) になりました。
でも、罪( つみ ) もある。「課( か ) 題( だい ) の分( ぶん ) 離( り ) 」だけが独( ひと ) り歩( ある ) きして、「これは他( た ) 人( にん ) の課( か ) 題( だい ) だから、自( じ ) 分( ぶん ) には関( かん ) 係( けい ) ない」「すべては個( こ ) 人( じん ) の勇( ゆう ) 気( き ) の問( もん ) 題( だい ) だ」という、冷( つめ ) たい自( じ ) 己( こ ) 責( せき ) 任( にん ) 論( ろん ) や、人間( にんげん ) 関( かん ) 係( けい ) の切( き ) り捨( す ) てに、縮( ちぢ ) んでしまう。アドラーが一( いち ) 番( ばん ) 大( だい ) 事( じ ) にした「仲( なか ) 間( ま ) への貢( こう ) 献( けん ) 」とは、真( ま ) 逆( ぎゃく ) の孤( こ ) 立( りつ ) を生( う ) む。
ここで、この束( たば ) の3人( さんにん ) を並( なら ) べると、 ぞっとするような共( きょう ) 通( つう ) 点( てん ) が見( み ) えてきます。
スマイルズの有( ゆう ) 名( めい ) な言葉( ことば ) は、本( ほん ) 人( にん ) の創( そう ) 作( さく ) ではありませんでした。ドゥエックの「努( ど ) 力( りょく ) をほめる」実践( じっせん ) は、本( ほん ) 人( にん ) が”偽( にせ ) 物( もの ) ”だと警( けい ) 告( こく ) したものでした。そしてアドラーの「課( か ) 題( だい ) の分( ぶん ) 離( り ) 」は、本( ほん ) 人( にん ) の用( よう ) 語( ご ) ですらなく、それを作( つく ) った野田( のだ ) さん自( じ ) 身( しん ) が、使( つか ) われ方( かた ) を嘆( なげ ) いていた。 3人( さんにん ) そろって、「看( かん ) 板( ばん ) 」と「中( なか ) 身( み ) 」が、ずれているんです。
なぜ、こうなるのか。答( こた ) えは、たぶんこうです。 自( じ ) 己( こ ) 啓( けい ) 発( はつ ) は、耳( みみ ) ざわりのいい”枝( えだ ) 葉( は ) ”だけが、切( き ) り取( と ) られて広( ひろ ) まる。 「努( ど ) 力( りょく ) すれば報( むく ) われる」「成( せい ) 長( ちょう ) マインドセットを持( も ) て」「課( か ) 題( だい ) を分( ぶん ) 離( り ) せよ」。どれも、キャッチーな一言( ひとこと ) に縮( ちぢ ) められて、本( ほん ) 人( にん ) が込( こ ) めた深( ふか ) い部( ぶ ) 分( ぶん ) (人( じん ) 格( かく ) 、戦( せん ) 略( りゃく ) と助( たす ) け、そして仲( なか ) 間( ま ) への貢( こう ) 献( けん ) )が、ぽろぽろとこぼれ落( お ) ちていく。
アドラーが本( ほん ) 当( とう ) に言( い ) ったのは、「他( た ) 人( にん ) を切( き ) り離( はな ) して自( じ ) 由( ゆう ) になれ」ではありません。「自( じ ) 分( ぶん ) で人( じん ) 生( せい ) を選( えら ) び、そのうえで、仲( なか ) 間( ま ) に貢( こう ) 献( けん ) せよ」でした。切( き ) り離( はな ) しは手( しゅ ) 段( だん ) で、貢( こう ) 献( けん ) こそが目( もく ) 的( てき ) 。 枝( えだ ) 葉( は ) (課( か ) 題( だい ) の分( ぶん ) 離( り ) )だけ持( も ) ち帰( かえ ) って、根( ね ) (共( きょう ) 同( どう ) 体( たい ) 感( かん ) 覚( かく ) )を置( お ) いてくると、あの温( あたた ) かいアドラーが、冷( つめ ) たい自( じ ) 己( こ ) 責( せき ) 任( にん ) の道( どう ) 具( ぐ ) に変( か ) わってしまう。 これが、自( じ ) 己( こ ) 啓( けい ) 発( はつ ) の源( げん ) 流( りゅう ) を3人( さんにん ) たどって、見( み ) えてくる共( きょう ) 通( つう ) のわなです。だからこのサイトは、枝( えだ ) 葉( は ) の一言( ひとこと ) でなく、根( ね ) っこごと、思( し ) 想( そう ) を渡( わた ) したい。
9. もっと知( し ) る
アドラーは、入口( いりぐち ) と、その先( さき ) を分( わ ) けて考( かんが ) えるのがコツです。
読( よ ) む順( じゅん ) の目( め ) 安( やす )
まずは『嫌( きら ) われる勇( ゆう ) 気( き ) 』(岸( きし ) 見( み ) 一郎( いちろう ) ・古賀史健( こがふみたけ ) )。対( たい ) 話( わ ) 形( けい ) 式( しき ) で、いちばん読( よ ) みやすい。ただし、 これは”解( かい ) 釈( しゃく ) 本( ほん ) ”だと意( い ) 識( しき ) して 読( よ ) んでください。
そのうえで、必( かなら ) ず続( ぞく ) 編( へん ) 『幸( しあわ ) せになる勇( ゆう ) 気( き ) 』か、本( ほん ) の第( だい ) 4夜( や ) まで読( よ ) み進( すす ) めること。アドラーの本( ほん ) 当( とう ) の到( とう ) 達( たつ ) 点( てん ) 「共( きょう ) 同( どう ) 体( たい ) 感( かん ) 覚( かく ) 」は、そこにあります。「課( か ) 題( だい ) の分( ぶん ) 離( り ) 」で止( と ) まると、半( はん ) 分( ぶん ) しか受( う ) け取( と ) れません。
本( ほん ) 人( にん ) の言葉( ことば ) に触( ふ ) れたければ、『人( じん ) 生( せい ) の意( い ) 味( み ) の心( しん ) 理( り ) 学( がく ) 』『個( こ ) 人( じん ) 心( しん ) 理( り ) 学( がく ) 講( こう ) 義( ぎ ) 』(ともに岸( きし ) 見( み ) 一郎( いちろう ) 訳( やく ) 、アルテ)へ。これがアドラー自( じ ) 身( しん ) の著( ちょ ) 作( さく ) です(ただし難( なん ) 易( い ) 度( ど ) は上( あ ) がります)。
10. まだ決着( けっちゃく ) していないこと(両( りょう ) 論( ろん ) ボックス)
まだ決着( けっちゃく ) していない論( ろん ) 点( てん )
研( けん ) 究( きゅう ) 者( しゃ ) の見( けん ) 解( かい ) が割( わ ) れている論( ろん ) 点( てん ) : アドラーをめぐる論( ろん ) 点( てん ) を、正( しょう ) 直( じき ) に置( お ) いておきます。
目( もく ) 的( てき ) 論( ろん ) 「トラウマは存( そん ) 在( ざい ) しない」は、洞( どう ) 察( さつ ) か、危( き ) 険( けん ) な否( ひ ) 定( てい ) か:過( か ) 去( こ ) に支( し ) 配( はい ) されず今( いま ) から変( か ) われる、という希( き ) 望( ぼう ) を与( あた ) える(洞( どう ) 察( さつ ) )/PTSDなど、身( しん ) 体( たい ) に刻( きざ ) まれるトラウマの実( じつ ) 在( ざい ) を軽( けい ) 視( し ) し、二次( にじ ) 加( か ) 害( がい ) を生( う ) む恐( おそ ) れ(危( き ) 険( けん ) )。※そもそも本( ほん ) 人( にん ) の文( ぶん ) でなく、本( ほん ) の見( み ) 出( だ ) しです。
『嫌( きら ) われる勇( ゆう ) 気( き ) 』は、アドラーの復権( ふっけん ) か、日本( にっぽん ) 的( てき ) な歪( わい ) 曲( きょく ) か :無( む ) 名( めい ) のアドラーを世( せ ) 界( かい ) 的( てき ) に蘇( よみがえ ) らせた(復権( ふっけん ) )/「課( か ) 題( だい ) の分( ぶん ) 離( り ) 」に偏( かたよ ) り、共( きょう ) 同( どう ) 体( たい ) 感( かん ) 覚( かく ) が後( こう ) 退( たい ) した解( かい ) 釈( しゃく ) 本( ほん ) (歪( わい ) 曲( きょく ) )。
課( か ) 題( だい ) の分( ぶん ) 離( り ) は、健( けん ) 全( ぜん ) な境( きょう ) 界( かい ) 線( せん ) か、他( た ) 者( しゃ ) の切( き ) り捨( す ) てか:過( か ) 干( かん ) 渉( しょう ) や共( きょう ) 依( い ) 存( ぞん ) から自( じ ) 立( りつ ) させる(境( きょう ) 界( かい ) 線( せん ) )/無( む ) 関( かん ) 心( しん ) や関( かん ) 係( けい ) 切( き ) りの口( こう ) 実( じつ ) になる(切( き ) り捨( す ) て)。※本( ほん ) 人( にん ) でなく野田( のだ ) の定( てい ) 式( しき ) 化( か ) で、本( ほん ) 来( らい ) は「共( きょう ) 同( どう ) の課( か ) 題( だい ) 」とセットでした。
アドラー心( しん ) 理( り ) 学( がく ) は、実証( じっしょう ) 科( か ) 学( がく ) として成( せい ) 立( りつ ) するか :CBTなどの源( げん ) 流( りゅう ) で、臨( りん ) 床( しょう ) 的( てき ) に有( ゆう ) 用( よう ) (実践( じっせん ) 的( てき ) な真( しん ) 理( り ) )/反( はん ) 証( しょう ) できず、疑( ぎ ) 似( じ ) 科( か ) 学( がく ) だ(ポパー)。※ポパー自( じ ) 身( しん ) も「いつかテスト可( か ) 能( のう ) になりうる」と留( りゅう ) 保( ほ ) しています。
どれも急( いそ ) いで答( こた ) えを出( だ ) さず、両( りょう ) 方( ほう ) を抱( かか ) えて考( かんが ) える。とくにアドラーは、「本( ほん ) 人( にん ) が言( い ) ったこと」と「後( あと ) の人( ひと ) が広( ひろ ) めたこと」を分( わ ) けて読( よ ) むのが、いちばん誠( せい ) 実( じつ ) な向( む ) き合( あ ) い方( かた ) です。
このサイトは、確( かく ) 定( てい ) した事( じ ) 実( じつ ) と、解( かい ) 釈( しゃく ) が割( わ ) れる論( ろん ) 点( てん ) を分( わ ) けて記( き ) 述( じゅつ ) しています。崇( すう ) 拝( はい ) も断( だん ) 罪( ざい ) もせず、出典( しゅってん ) に当( あ ) たれる形( かたち ) を心( こころ ) がけました。アドラーについては特( とく ) に、本( ほん ) 人( にん ) の思( し ) 想( そう ) と、『嫌( きら ) われる勇( ゆう ) 気( き ) 』が描( えが ) いたアドラー像( ぞう ) を、混( ま ) ぜないよう努( つと ) めています。